孫引き引用

池波正太郎「毒」

その日。そのとき……。 長谷川平蔵は、金竜山・浅草寺の仁王門を通りぬけようとしていた。 師走(陰暦十二月)中旬の、或日の昼下りのことで、風も絶えた暖かい日和の所為(せい)もあり、観世音菩薩を本尊とする名刹・浅草寺境内の雑踏ぶりは、久しぶりに浅草…

後藤明生「挾み撃ち」

ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得。わたしは、お茶の水の橋の上に立っていた。夕方だっ…

森敦「月山」

ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいうべき肘折(ひじおり)の渓谷にわけ入るまで、月山がなぜ月の山と呼ばれるかを知りませんでした。そのときは、折からの豪雪で、危く行き倒れになるところを助けられ、からくも目ざす渓谷に辿りついた…

藤沢周平「暗殺の年輪」

貝沼金吾が近寄ってきた。 双肌(もろはだ)を脱いだままで、右手に濡れた手拭いを握っている。立止まると馨之介(けいのすけ)の顔はみないで、井戸の方を振向きながら、 「帰りに、俺のところに寄らんか」 と言った。 時刻は七ツ(午後四時)を廻った筈だが、…

三木卓「鶸」

その兵士は肩から吊している自動小銃をゆすりながら近づいて来、台の上にならべられた煙草の前まで来ると無造作に手を伸ばして一箱ずつポケットに入れはじめた。最初はズボンの左右に、それから外套に外側から縫いつけてある大型のものに、落着いた手付きで…

開高健「夏の闇」

その頃も旅をしていた。 ある国をでて、べつの国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた。季節はちょうど夏の入口で、大半の住民がすでに休暇のために南へいき、都は広大な墓地か空谷にそっくりのからっぽ…

曾野綾子「落葉の声」

収容所の廊下の壁にそってかけられた人々の写真は、どれも魚の顔のようであった。その眼は大きく見開かれ、眼球のまわりに薄い眼瞼の皮膚がまつわりついているので、それも、魚の眼とそっくりであった。一人くらい笑っている写真はないものだろうか。生まれ…

庄野潤三「絵合せ」

炬燵で宿題をしている良二が、うつむいている顔を上げて、何か考えようとすると、額に不揃いな皺が寄る。 小学二年の時に(いまは中学二年だが)、学校の廊下を走っていて、友達とぶつかって大きなこぶが額に出来た。友達の方は前歯がぐらぐらになった。 ど…

円地文子「遊魂」

葵祭は雨になれば一日延びるそうなと聞かされて、朝の寝ざめにもまず空あいが気にかかっていたのであろう。ふらふらベッドから起き出して障子風に紙を貼ったホテルの内窓を明けて見ると、下の方の白っぽく灰をまぶしたような古い屋根瓦の連りの先に河原が見…

清岡卓行「アカシヤの大連」

かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通…

あまんきみこ「おにたのぼうし」

せつぶんの夜のことです。/まこと君が、元気にまめまきを始めました。/ぱら ぱら ぱら ぱら/まこと君は、いりたてのまめを、力いっぱい投げました。/「福はあ内。おにはあそと。」/茶の間も、客間も、子ども部屋も、台所も、げんかんも、手あらいも、て…

黒井千次「時間」

――火をとめておいた方がよくはないか。 ビールのコップを持った中腰の浅井が彼の横にいた。昔のままの、浅黒い、頬骨の張った小柄な顔だった。卒業してから分厚い肉を身体につけていない数少ない顔の一つだ。このまま背広を学生服かスエターに替え、靴下をと…

阿部昭「大いなる日」

さよならだ。永かったつきあいも、これでさよならだ。僕はいちばん古い友達をなくした。……〔中略〕 僕はさいしょ、何の気なしに正面の玄関のほうへ歩き出した。すると、誰かが暗い廊下のむこうで僕を呼んだので、思い違いをしていたことに気がついたのだった…

有吉佐和子「芝桜」

正子は決して不器用な娘ではない。踊りだって、清元だって、師匠が将来有望だと本気で期待しているほど勘がいいのである。だが何分にも狙いをつける金魚が大きすぎた。それはほんの数匹、金魚屋が見た目の景気づけに入れてある金魚だった。縁日に群がって来…

辻邦生「嵯峨野明月記」

一の声 私はもうすでに十分生きながらえてきたように思う。いまは残る歳月をお前たちのために役立てたいと思うばかりだ。私にはかつてのような体力もなく、お前たちや職人一統を率いてゆく気力もない。私がここを経営してすでに二十年。はじめて家の土台が置…

司馬遼太郎「坂の上の雲」

まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は松山。 城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の中央に釜を伏せたような…

古井由吉「木曜日に」

鈍色にけぶる西の中空から、ひとすじの山稜が遠い入江のように浮び上がり、御越山の頂きを雷が越しきったと山麓の人々が眺めあう時、まだ雨雲の濃くわだかまる山ぶところの奥深く、幾重もの山ひだにつつまれて眠るあの溪間でも、夕立ち上りはそれと知られた…

藤枝静男「一家団欒」

水面からの反射光とも、空からの光ともつかぬ、白っぽい光線が湖上に遍満していて、水だけはもう生まぬるい春の水になっていた。 章はそのなかを、遠い対岸めざして一直線に渡って行った。そうして、岸辺に到着すると、松林のなかを再びまっすぐに歩いて行っ…

丸谷才一「笹まくら」

香奠(こうでん)はどれくらいがいいだろう? 女の死のしらせを、黒い枠に囲まれた黄いろい葉書のなかに読んだとき、浜田庄吉はまずそう思った。あるいは、そのことだけを思った。その直前まで熱心に考えつづけていたのが、やはり香奠のことだから、すぐこんな…

梅崎春生「幻化」

五郎は背を伸ばして、下界を見た。やはり灰白色の雲海だけである。雲の層に厚薄があるらしく、時々それがちぎれて、納豆の糸を引いたような切れ目から、丘や雑木林や畠や人家などが見える。しかしすぐ雲が来て、見えなくなる。機の高度は、五百米くらいだろ…

小沼丹「黒と白の猫」

妙な猫がゐて無断で大寺さんの家に上り込むやうになつた。或る日、座敷の真中に見知らぬ猫が澄して坐つてゐるのを見て、大寺さんは吃驚した。それから、意外な気がした。それ迄も、不届な無断侵入を試みた猫は何匹かゐたが、その猫共は大寺さんの姿を見ると…

中川李枝子「たまご」

のねずみのグリとグラは、大きなかごをもって、森のおくへでかけました。 ぼくらのなまえは グリとグラ このよでいちばんすきなのは おりょうりすること たべること グリ グラ、グリ グラ 「どんぐりをかごいっぱいひろったら、おさとうをたっぷりいれてによ…

古田足日『新版 宿題ひきうけ株式会社』

話は、まず宿題ひきうけ株式会社のことからはじまる。 この会社は名前どおり、宿題を本人のかわりにやってくれる会社だ。 たとえば、江戸時代の交通の地図を書けという宿題が出たとする。それをしらべたり、書いたりするのがめんどうくさいときは、この会社…

水上勉「越前竹人形」

「家内でござります」 と、喜助はひくい声で鮫島に紹介した。鮫島は、さきほど喜助が母屋に入ったとき、声をかけていたのはこの細君をよんでいたのか、と思いながら、ゆっくりと玉枝の顔に目をやった。瞬間息をのんだ。 美貌だったからだ。すらりと背の高い…

北杜夫「楡家の人びと」

楡病院の裏手にある賄場は昼餉の支度に大童であった。二斗炊きの大釜が四つ並んでいたが、百人に近い家族職員、三百三十人に余る患者たちの食事を用意しなければならなかったからである。 竈の火はとうにかきだされ、水をかけられて黒い焼木杭になった薪が、…

檀一雄「火宅の人」

「第三のコース、桂次郎君。あ、飛び込みました、飛びこみました」 これは私が庭先をよぎりながら、次郎の病室の前を通る度に、その窓からのぞきこんで、必ず大声でわめく、たった一つの、私の、次郎に対する挨拶なのである。 こんな時、次郎は大抵、マット…

安部公房「無関係な死」

客が来ていた。そろえた両足をドアのほうに向けて、うつぶせに横たわっていた。死んでいた。 もっとも、事態をすぐに飲込むというわけにはいかなかった。驚愕がおそってくるまでには、数秒の間があった。その数秒には、まるで電気をおびた白紙のような、息づ…

三浦哲郎「忍ぶ川」

志乃をつれて、深川へいつた。識りあつて、まだまもないころのことである。 深川は、志乃が生まれた土地である。深川に生まれ、十二のとしまでそこで育つた、いわば深川ッ子を深川へ、去年の春、東北の片隅から東京へ出てきたばかりの私が、つれてゆくという…

松谷みよ子「龍の子太郎」

けわしい山が、いくつも、いくつも、かさなりあってつづいている山あいに、小さな村がありました。村の下には、すきとおった谷川が、こぼこぼと音をたててながれていましたが、あたりはまるっきりのやせ地で、石ころだらけの小さな畑からは、あわだの、ひえ…

島尾敏雄「死の棘」

私たちはその晩からかやをつるのをやめた。どうしてか蚊がいなくなった。妻もぼくも三晩も眠っていない。そんなことが可能かどうかわからない。少しは気がつかずに眠ったのかもしれないが眠った記憶はない。十一月には家を出て十二月には自殺する。それがあ…