引用

谷川俊太郎『旅』「旅4 Alicante」

一枚の絵葉書を見る 思い出ではない 今でもない 時 心は透けている 心の向こうに海が見える 暗くもなく眩(まばゆ)くもなく さえぎるな 言葉! 私と海の間を こめかみに 一粒の汗 地名の なんという明晰

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

ソーニャ ああ厭だ厭だ、どうして不器量に生れついたんだろう! ほんとに厭だこと! しかも私は、自分の不器量さかげんをよく知っているわ、ようく知っているわ。……こないだの日曜、わたしが教会から出てきたら、みんなで噂をしているのが聞えたっけ。「あの…

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

アーストロフ 僕に言わせるとですね、僕の時代はもう過ぎてしまって、今じゃ何もかも手後れなんです。年はとるし、働きすぎてへとへとだし、俗物にはなるし、感情はすっかり鈍ってしまうし、今ではもう僕は、とても人間とは結びつけそうもありません。現に僕…

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

ソーニャ あなたは、すっきりしたかたで、とても優しい声をしてらっしゃるわ。……わたしの知っている誰よりも彼よりも、ずっとりっぱなかたですわ。だのに、なぜあなたは、飲んだくれたり、カルタをしたり、そんな凡人のまねがなさりたいの? ね、そんなまね…

谷川俊太郎『旅』「旅3 Arizona」

地平線へ一筋に道はのびている 何も感じない事は苦しい ふり返ると 地平線から一筋に道は来ていた 風景は大きいのか小さいのか分らなかった それは私の眼にうつり それはそれだけの物であった 世界だったのかそれは 私だったのか 今も無言で そしてもう私は …

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

アーストロフ 人間というものは、何もかも美しくなくてはいけません。顔も、衣裳も、心も、考えも。なるほどあの人は美人だ、それに異存はありません。けれど……じつのところあの人は、ただ食べて、寝て、散歩をして、あのきれいな顔でわれわれみんなを、のぼ…

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

ワーニャ 年なんか関係ないさ。本当の生活がない以上、幻に生きるほかはない。とにかく、何もないよかましだからね。 ソーニャ 草刈はすっかり済んだというのに、まいにち雨ばっかり、せっかくの草がみんな腐りかけているわ。だのにあなたは、幻を追うのがご…

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

アーストロフ 女が男の親友になるまでには、こういう手順がいるものだ。――はじめは友達、それから恋人、さてその先が親友。

谷川俊太郎『旅』「旅2」

乞食(ジプシー)が 車の窓をたたいて喚いた 通ぜぬ言葉とてなかった オスティア 泥に埋まる泥の壁 涸れた井戸 松毬(まつかさ) 其所は此処 余所ではない此処 乞食の此処私の此処 私は此処 逃れるすべはない 青空にすら 人の手はとうに触れている

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

エレーナ ねえ、ワーニャさん、あなたは教育のある、頭のできたかたですから、おわかりのはずだと思いますけど、この世の中を滅ぼすのは、強盗でも火事でもなくって、むしろ怨みだとか憎しみだとか、そういったごくつまらないいざこざなのですわ。……ですから…

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

エレーナ あの人のおかげで、へとへとだわ。今にも倒れそうだわ。 ワーニャ あなたは、あの人のおかげ。ところが僕は、ほかならぬ僕自身のおかげで、すっかりへとへとですよ。これでもう三晩も寝ないんですからね。

谷川俊太郎『旅』「旅1」

美しい絵葉書に 書くことがない 私はいま ここにいる 冷たいコーヒーがおいしい 苺のはいった菓子がおいしい 町を流れる河の名は何だったろう あんなにゆるやかに ここにいま 私はいる ほんとうにここにいるから ここにいるような気がしないだけ 記憶の中で…

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

セレブリャコーフ ツルゲーネフは、痛風から扁桃腺が腫れたという話だ。わたしも、そうならなければいいが、まったく、年をとるということは、じつになんともはや厭なことだな。いまいましい。年をとるにつれて、われとわが身がつくづく厭になるよ。お前たち…

谷川俊太郎「これが私の優しさです」

窓の外の若葉について考えていいですか そのむこうの青空について考えても? 永遠と虚無について考えていいですか あなたが死にかけているときに あなたが死にかけているときに あなたについて考えないでいいですか あなたから遠く遠くはなれて 生きている恋…

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

エレーナ どうしてあなたがたは、自分のものでもない女のこと、そう気に病むんでしょうねえ。わかっていますわ、それはドクトルの仰しゃるとおり、あなたがたは一人のこらず、破壊とやらの悪魔をめいめい胸の中に飼ってらっしゃるからなのよ。森も惜しくない…

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

ワーニャ もしもあなたが、自分の顔や、自分の立ち居振舞いを、われとわが目で見られたらなあ。……あなたは生きているのが、じつに大儀そうですよ! じつになんとも、大儀そうですよ!

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

アーストロフ しかしね、僕のおかげで、伐採の憂目をまぬかれた、百姓たちの森のそばを通りかかったり、自分の手で植えつけた若木の林が、ざわざわ鳴るのを聞いたりすると、僕もようやく、風土というものが多少とも、おれの力で左右できるのだということに、…

谷川俊太郎「兵士の告白」

殺スノナラ 名前ヲ知ッテカラ殺シタカッタ 殺スノナラ 一対一デ殺シタカッタ 殺スノナラ 機関銃ナンカデナク 素手デ殺シタカッタ 殺サレル者ヨリモ殺ス者ノ方ガ 何故コンナニ不幸ナノカ ソノワケヲユックリト囁キナガラ 殺シタカッタ 殺スノナラアアセメテ …

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

エレーナ いいお天気だこと、きょうは。……暑くもなし。…… 間 ワーニャ こんな天気に首をくくったら、さぞいいだろうなあ。……

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

ワーニャ ええ、そうですとも! 僕は明るい人間でしたが、そのくせ誰一人として、明るくしてはやれなかった。……(間)この僕が明るい人間だった。……これほど毒っ気の強い皮肉は、ほかにちょっとないな。僕もこれで四十七です。去年までは僕もあなたと同じよ…

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

テレーギン まあ、お聞きよ、ワーニャ。わたしの女房は、このわたしの男っぷりに愛想をつかして、婚礼のあくる日、好きな男と駆落ちしてしまった。けれどわたしは、その後(ご)も自分の本分に、そむいたことはないよ。今になるまでわたしは、あれが好きだし、…

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

アーストロフ まだ当分、ここにいるつもりなのかね。 ワーニャ (ヒューと口笛を吹いて)百年ぐらいね。やっこさん、ここに居坐る肚(はら)なのさ。

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

アーストロフ ……そこで私は坐りこんで、こう目をつぶって――こんなことを考えたよ。百年、二百年あとから、この世に生れてくる人たちは、今こうして、せっせと開拓者の仕事をしているわれわれのことを、ありがたいと思ってくれるだろうか、とね。ねえ、ばあや…

谷川俊太郎「只」

本に値段があるなんて ピカソの絵が何百万だなんて 別れた女に慰藉料出すなんて 特許使用料だなんて 著作権使用料だなんて 詩を書いて稿料もらうなんて なんてなんて未開な風習だろう! 空気も海も天の川も 愛も思想も歌も詩も 女も子供も友人も ほんとうに…

カフカ『アメリカ』(中井正文 訳)

「ええ、世の中には、まだまだ誠実さがころがってるもんですよ」

カフカ『城』(前田敬作 訳)

「人生は苦いものですから、自分の手で甘くしなくてはなりません」

カフカ『城』(前田敬作 訳)

「もっとも、この世には、大きすぎて使いものにならない機会があるものです。それ自身があまりにりっぱすぎるためにだめになってしまうような事柄があるものです。まったく、おどろくべきことですな」

谷川俊太郎「ワイセツについて」

どんなエロ映画も 愛しあう夫婦ほどワイセツにはなり得ない 愛が人間のものならば ワイセツもまた人間のものだ ロレンスが ミラーが ロダンが ピカソが 歌麿が 万葉の歌人たちが ワイセツを恐れたことがあったろうか 映画がワイセツなのではない 私たちがも…

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

ニーナ わたしの歩いた地面に接吻したなんて、なぜあんなことをおっしゃるの? わたしなんか、殺されても文句はないのに。(テーブルにかがみこむ)すっかり、へとへとだわ! 一息つきたいわ、一息! (首をあげて)わたしは――かもめ。……いいえ、そうじゃな…

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

ニーナ むごいものだわ、生活って。