引用

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トレープレフ (間)そう、おれはだんだんわかりかけてきたが、問題は形式が古いの新しいのということじゃなくて、形式なんか念頭におかずに人間が書く、それなんだ。魂のなかから自由に流れ出すからこそ書く、ということなんだ。

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トレープレフ (書きつづけようとして、今まで書いたところに目を走らせる)おれは口ぐせみたいに、新形式、新形式と言ってきたが、今じゃそろそろ自分が、古い型へ落ちこんでゆくような気がする。

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

ソーリン わしはコースチャに、ひとつ小説の題材をやりたいよ。題は、こうつけるんだな――『なりたかった男』。つまり『ロンム・キ・ア・ヴーリュ』さ。若いころ、わたしは文学者になりたかった――が、なれなかった。弁舌さわやかになりたかった――が、わたしの…

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

マーシャ みんな、ばかげたことよ。望みなき恋なんて、小説にあるだけだわ。くだらない。ただ、よせばいいのよ――甘ったれた気持になって、待てば海路の日和だかなんだか、ぽかんと何かを待っている、そんな態度をね。……心に恋が芽を出したら、摘んで捨てるま…

谷川俊太郎「殺意」

殺されたのがケネディだったから 北京の子どもたちは拍手した 殺されたのが毛沢東だったら 彼等は拍手しなかったろう 私にも怒りがある 憎しみがある嫉妬がある傲慢がある 私にも殺意がある 予期できぬ殺意が 暗殺とは一人が一人を殺すこと 戦争とは万人が万…

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トリゴーリン その気になりさえすりゃ、非凡な女になれるんだ。幻の世界へ連れていってくれるような、若々しい、うっとりさせる、詩的な愛――この世でただそれだけが、幸福を与えてくれるのだ! そんな愛を、僕はまだ味わったことがない。……若いころは、雑誌…

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トリゴーリン 時どき人間は、歩きながら眠ることがある。まさにそのとおりこの僕も、こうして君と話をしていながら、じつはうとうとして、あの子の夢を見ているようなものだ。……なんともいえない甘い夢想の、とりこになってしまったんだ。……行かせておくれ。

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トレープレフ ところが僕は尊敬していない。お母さんは、僕にまであの男を天才だと思わせたいんでしょうが、僕は嘘がつけないもんで失礼――あいつの作品にゃ虫唾が走りますよ。 アルカージナ それが妬みというものよ。才能のないくせに野心ばかりある人にゃ、…

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

アルカージナ (間をおいて)じゃ、ここでお暮しなさいね、退屈がらずに、お風邪を召さずにね。あの子の監督をおねがいしますよ。よく気をつけてやってね。導いてやってね。(間)こうしてわたしが発ってゆけば、なぜコンスタンチンがピストル自殺をしようと…

谷川俊太郎「因果」

結果はたったひとつだが 原因の数はゴマンとあるよ 小さすぎて目にもとまらぬ原因から 大きすぎて目にはいらない原因まで 原因は人間とともに繁殖し 原因はレールとともにどこまでも続き 原因はボタ山のように積みかさなり 原因は廃坑のように忘れられ 或る…

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トリゴーリン だがまあ、しばらくお話しましょうか。そのわたしの、すばらしい、明るい生活のことをね。……さてと、何から始めたものか? (やや考えて)強迫観念というものがありますね。人がたとえば月なら月のことを、夜も昼ものべつ考えていると、それに…

谷川俊太郎「千羽鶴」

感傷の糸につながれて 鳴かず 飛ばず ただそよかぜにゆれて―― あまりにはかない祈りのかたち 千人針を縫った手が 性こりもなく千羽鶴を折る ああもどかしい日本! 千羽は無力万羽も億羽も無力 あの巨大な悪の不死鳥と戦うには もう折るな不妊の鶴は 祈るだけ…

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トリゴーリン わたしは、ごくたまにしか若いお嬢さん――若くてしかもきれいなお嬢さんに、会う機会がないもので、十八、九の年ごろには一体どんな気持でいるものか、とんと忘れてしまって、どうもはっきり頭に浮ばんのです。だから、わたしの作品に出てくる若…

谷川俊太郎「子どもは……」

子どもはなおもひとつの希望 このような屈託の時代にあっても 子どもはなおもひとつの喜び あらゆる恐怖のただなかにさえ 子どもはなおもひとりの天使 いかなる神をも信ぜぬままに 子どもはなおも私たちの理由 生きる理由死を賭す理由 子どもはなおもひとり…

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トレープレフ (無帽で登場。猟銃と、鷗の死骸を持つ)一人っきりなの? ニーナ ええ、そう。 トレープレフ、鷗を彼女の足もとに置く。 ニーナ どういうこと、これ? トレープレフ 今日ぼくは、この鷗を殺すような下劣な真似をした。あなたの足もとに捧げま…

谷川俊太郎「雛祭の日に」

娘よ―― いつかおまえの たったひとつの ほほえみが ひとりの男を 生かすことも あるだろう そのほほえみの やさしさに 父と母は 信ずるすべてを のこすのだ おのがいのちを のこすのだ

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

ニーナ わたし、有名な人って、そばへも寄れないほどえばりくさって、世間の人間を見くだしているものと思っていた。家柄だの財産だのを、無上のものと崇め奉る世間にたいして、自分の名誉やぱりぱりの名声でもって、仕返しをする気なのだろうと思っていた。…

谷川俊太郎「にっぽんや」

スコッチ あり升 水 品切 自動車 投売 道 売切 ミサイル 高価買入 基地 御相談 オリンピック 近日入荷 フジヤマ 見切 但 SYMBOL 非売品

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

アルカージナ あーあ、およそ退屈といったら、この親愛なる田舎の退屈さに、まさるものなしだわね! 暑くて、静かで、誰もなんにもせずに、哲学ばかりやって。……ねえ皆さん、こうしてごいっしょにいるのもいいし、お話を伺ってるのも楽しいわ。だけど……ホテ…

谷川俊太郎「除名」

名を除いても 人間は残る 人間を除いても 思想は残る 思想を除いても 盲目のいのちは残る いのちは死ぬのをいやがって いのちはわけの分らぬことをわめき いのちは決して除かれることはない いのちの名はただひとつ 名なしのごんべえ

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

メドヴェージェンコ ソーリンさんは、タバコをやめるべきでしょうな。 ソーリン くだらん。 ドーリン いや、くだらんどころじゃない。酒とタバコは、個性を失わせますよ。シガー一本、ウオトカ一杯やったあとのあなたは、もはやソーリン氏ではなくて、ソーリ…

谷川俊太郎「マリファナ」

眼にしみる汗 指先にわき上る血 唇によだれ サクスのセクスの中 泡立つ唾液のサクセス ひとつの心臓を求めるあらゆるリズムのいら立ちの中に 探すおもかげ 古いこわれたバンジョーのおもかげ 空を切る槍のおもかげ ベネチアの日時計のおもかげ 歩いてゆく聖…

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

アルカージナ (マーシャに)じゃ、立ってみましょう。(ふたり立ちあがる)こうして並んでね。あんたは二十二、わたしはかれこれその倍よ。ね、ドールンさん、どっちが若く見えて? ドールン あなたです、もちろん。 アルカージナ そうらね……で、なぜでしょ…

谷川俊太郎「顔」

砂漠は世界の額であれ 樹々は世界の髪であれ 空は世界の瞳 山は鼻 火は唇 海は世界の頰であれ 世界はひとつの顔であれ 盲いた私の眼を二つの黒子に 凍った私の心をささやかな耳飾りに 世界はひとつの おそろしい微笑みの顔であれ

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

ドールン なんてみんな神経質なんだ! なんて神経質なんだ! それに、どこもかしこも恋ばかしだ。……おお、まどわしの湖よ、だ! (やさしく)だって、この僕に一体、何がしてあげられます、ええ? 何が? え、何が?

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

マーシャ ほかに言いようがなくなると、みなさんおっしゃるのね――若い、若いって……

谷川俊太郎「もし言葉が」

黙っていた方がいいのだ もし言葉が 一つの小石の沈黙を 忘れている位なら その沈黙の 友情と敵意とを 慣れた舌で ごたまぜにする位なら 黙っていた方がいいのだ 一つの言葉の中に 戦いを見ぬ位なら 祭とそして 死を聞かぬ位なら 黙っていた方がいいのだ も…

チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

ニーナ あなたの戯曲、なんだか演(や)りにくいわ。生きた人間がいないんだもの。 トレープレフ 生きた人間か! 人生を描くには、あるがままでもいけない、かくあるべき姿でもいけない。自由な空想にあらわれる形でなくちゃ。 ニーナ あなたの戯曲は、動きが…

谷川俊太郎「泣く」

彼女には泣くべき理由があった 彼女には泣くべき理由が沢山あった そして誰もそれを理解しなかった だから彼女は泣いた 黒い裏皮の手袋の 右の手で右のまぶたを押さえ 左の手で左のまぶたを押さえて 涙は次から次へと丸い滴になって 唇のところでとまって そ…

クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

ある古書店で、彼は赤褐色のモロッコ革で装丁した、十五巻だか二十巻の『人間喜劇』を買い、喜びもなく、一冊また一冊と、ただの一巻も飛ばさずに、風が音立てて屋根をこすりどこかで鎧戸をばたばたさせるのを聞きながら、辛抱づよく読んでいった。数少ない…