孫引き引用

倉橋由美子「パルタイ」

ある日あなたは、もう決心はついたかとたずねた。わたしはあなたがそれまでにも何回となくこの話を切りだそうとしていたのを知っていた。それにいつになくあなたは率直だった。そこでわたしも簡潔な態度をしめすべきだとおもい、それはもうできている、と答…

永井龍男「一個」

(冒頭)「柱時計の振り子の音で、けさ四時まで、完全に眠れなかったんだからな」 佐伯は、自分にいい聞かせた。 そのくせ、自分を乗せて走っている電車の騒音には無感覚だった。 (結末近く)だが、柱時計は命じた。 「明けなさい、止めなさい、明けなさい…

串田孫一「山に関する断想」

これまで、沢山の人が山へ登った。これからも登り続けるだろう。恐らく山がある限り人は山へ登る。それなら、人類は最後まで山へ登るだろうか。人類の最後の日が来ても山は地上に聳えているだろうから。 しかし、人はそれまで、山に対して謙虚であり得ないか…

福永武彦「影の部分」

ソシテ人間ノ一生ハ何処カラカ既ニキマッテシマッテイルノダ。人ハ運命トイウ。シカシソレヲキメルノハ彼(或イハ彼女)自身ノ影ノ部分ダ。シカシ誰ガ、イツ、遅スギズニ、ソノコトニ気ガツクノカ。 もしこれが小説ならば、僕は事実だけを簡潔に語って、現実…

井上靖「楼蘭」

往古、西域に楼蘭と呼ぶ小さい国があった。この楼蘭国が東洋史上にその名を現わして来るのは紀元前百二、三十年頃で、その名を史上から消してしまうのは同じく紀元前七十七年であるから、前後僅か五十年程の短い期間、この楼蘭国は東洋の歴史の上に存在して…

大江健三郎「さようなら、私の本よ!」

老年になりながら、それも暴力がらみの深手(ふかで)を負って入院した長江古義人(ちょうこうこぎと)は、大病院の個室に顔を出す見舞客の思いがけなさに戸惑うことがあった。個人負担で、ベッドの底に退避用の大型パイプを設置したかった。しかし永年会うこと…

大江健三郎「みずから我が涙をぬぐいたまう日」

ある真夜中、かれがローテスクの回転式鼻毛切りで、もう生きた足の上に乗っかって塵埃の巷に出てゆくこともない、自分の鼻を、猿の鼻孔さながらに、鼻毛いっぽんはえていないものにすべく、しきりに刈りこんでいると、おなじ病院の精神科病棟から抜け出てき…

大江健三郎「死者の奢り」

死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴じみにくい独立感を持ち、おのおのの自分の内部に向って凝縮しながら、しかし執拗に躰を…

小川国夫「アポロンの島」

ミケネの遺跡はアテネへ行く街道から少し入った所にあった。柚木浩がミケネから歩いてこの道路に出て、バスを待っていた時には日が照っていた。コリントでバスが十分位小休止をした時、彼は下りて葡萄を買ったが、雨が頬に当った。 浩は土砂降りになっていた…

松本清張「点と線」

安田辰郎は、一月十三日の夜、赤坂の割烹料亭「小雪」に一人の客を招待した。客の正体は、某省のある部長である。 安田辰郎は、機械工具商安田商会を経営している。この会社はここ数年に伸びてきた。官庁方面の納入が多く、それで伸びてきたといわれている。…

深沢七郎「楢山節考」

山と山が連っていて、どこまでも山ばかりである。この信州の山々の間にある村――向う村のはずれにおりんの家はあった。家の前に大きい欅の根の切株があって、切口が板のように平たいので子供達や通る人達が腰をかけては重宝がっていた。だから村の人はおりん…

幸田文「流れる」

このうちに相違ないが、どこからはひつていゝか、勝手口がなかつた。 往来が狭いし、たえず人通りがあつてそのたびに見とがめられてゐるやうな急いた気がするし、しやうがない、切餅のみかげ石二枚分うちへひつこんでゐる玄関へ立つた。すぐそこが部屋らしい…

小島信夫「馬」

僕はくらがりの石段をのぼってきて何か堅いかたまりに躓き向脛を打ってよろけた。僕の家にこんな躓くはずのものは今朝出がけにはなかった。今朝出がけではなく、今まで三年何ヵ月のあいだにこんな障害物はなかった。これはいったい何であろうと思ってさわっ…

吉行淳之介「夕暮まで」

大型バスが走っている。舗装された道が一本、真直につづいていて、その左右はひろびろとした野原である。ところどころに、人家がみえる。やがて、海が見えた。その海はしだいに迫ってきて、道のすぐ下が波打際になった。波が砕けて、白く飛び散る。 人家の密…

吉行淳之介「驟雨」

ある劇場の地下喫茶室が山村英夫の目的の場所だったが、舗装路一ぱいに溢れて行き交う人々の肩や背に邪魔されて、狭い歩幅でのろのろと進むことしか出来ない。日曜日の繁華街は、ひどい混雑だった。しかし、そのことは、彼を苛立たせはしない。うしろに連っ…

安岡章太郎「海辺の光景」

片側の窓に、高知湾の海がナマリ色に光っている。小型のタクシーの中は蒸し風呂の暑さだ。桟橋を過ぎると、石灰工場の白い粉が風に巻き上げられて、フロント・グラスの前を幕を引いたようにとおりすぎた。

安岡章太郎「悪い仲間」

シナ大陸での事変が日常生活の退屈な一と齣になろうとしているころ、ようやく僕らの顔からは中学生じみたニキビがひっこみはじめていた。大学部の予科に進んで最初の夏休みのことだ。北海道の実家へ遊びに行く同級生倉田真悟の、いっしょに行かないかという…

岩本素白「晩春夜話―南駅余情、一―」

独活(うど)すこし、慈姑(くわい)すこし、それに蕗と出たての莢豌豆(さやえんどう)とがあれば、私の晩春の頃の食膳は事足りる。魚も肉も食べはするが、生来その生臭さを好まないのである。そのくせ、鰻と天婦羅とは必ずしもひどくは厭わない。甚だ変なことだ…

小山いと子「花合せ」

私はこの話をウソだと思ふ。第一こんな例は今までに聞いたことがないし、そんな都合のよい(或は都合のわるい)話があつてたまるものかと思ふ。何より、私はこんな話を好まない。私は社会の秩序を愛し公安を重んじ規律を尚ぶものであるから、どうしたつてこ…

壺井栄「二十四の瞳」

十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙の規則があらたまって、普通選挙法というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。昭和三年四月四日、農…

堀田善衛「漢奸」

占領はもうすぐ終る。そのあとに来るものは、酷烈な粛清の筈だろうに――匹田は、この男はいったいどうしてこう陽気なのか? と訝りながら安徳雷(アンドレ)というフランス風な筆名で知られている詩人記者を見上げた。口をひらくごとに義眼のような、眼窩からと…

与田準一「五十一番めのザボン」

たちばな小学校は、全学年で、ひとつの学級になっていました。そんな、わずかな人数の、小さな、山の小学校でした。(中略)生徒たちは海のむこうの国から、ザボンの木のある、この、父母たちの故郷(こきょう)へ、ひきあげてきたのでした。先生も、また、ひ…

阿川弘之「春の城」

彼等の家は広島の町の同じ川筋にあつた。伊吹のところの、石崖の上の客間からは、ぢかに川へ糸を垂れて沙魚(はぜ)の仔を釣る事が出来たし、其処から七、八丁かみの、耕二の家の裏の白い川原は、夏、水遊びの子供たちで賑はつた。花崗岩質の、キラキラ光る砂…

田宮虎彦「足摺岬」

石礫の様に檐をたゝきつける烈しい横なぐりの雨脚の音が、やみ間もなく、毎日、熱にうかされた私の物憂い耳朶を洗ひつゞけてゐた。病み疲れてゐたその私も、私がくるまり横たはつてゐる薄い煎餅蒲団も、指でおせば濁つた雨水がじとじととにじみ出さうなさゝ…

三島由紀夫「仮面の告白」

永いあひだ、私は自分が生れたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。それを言ひ出すたびに大人たちは笑ひ、しまひには自分がからかはれてゐるのかと思つて、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。それがた…

木下順二「夕鶴」

いつの間にか帰ってきたつうが、奥からすっと出る。 運ず わっ。 惣ど あっ。こ、こら、留守の間に上がりこんで…… つう ……?(鳥のように首をかしげていぶかしげに二人を見まもる) 運ず へい、おらはその、向こうの村の運ずっちゅうもんで、あの布のことで…

河原枇杷男

母の忌の螢や籠の中を飛ぶ

夏石番矢

千年の留守に瀑布を掛けておく

加藤治郎

言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!

大岡昇平「野火」

私は頰を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。 「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰って来る奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みてえな肺病やみを、飼っと…