2010-09-01から1ヶ月間の記事一覧

「朝の散歩」安岡章太郎

いったい何がうしろめたいのか、他人の不幸をのぞき見することが気がとがめるのか、私にはそれはわからなかった。何にしても、 「ああ、ああ……」という女の高い声が、澄み切った秋の空に響くと、私はふと母親の声を聞きつけたような、心の底に断念していたも…

「或日の大石内蔵助」芥川龍之介

このかすかな梅の匂いにつれて、冴え返る心の底へしみ透ってくる寂しさは、このいいようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。――内蔵助は、青空に象嵌をしたような、堅く冷たい花を仰ぎながら、いつまでもじっとたたずんでいた。

「坊っちゃん」夏目漱石

出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。来る途中小間物屋で買ってきた歯磨きと楊枝と手拭をズックの革鞄に入れてくれた。そんな物はいらないと言ってもなかなか承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込ん…

「縁談窶(やつれ)」里見トン

「いやはや、押しの利かねえことおびただしいもんだね」 「え」 「いいえさ、子供というやつァ、うっかり油断がならないッてことさ」 都留子は、ニヤリと笑って、 「でも、御幸福(ごこうふく)だわね」 「え? 誰が?」 「小父さんだって、あの方だって」 …

「科学者とあたま」寺田寅彦

大小方円の見さかいも付かないほどに頭が悪いおかげで大胆な実験をし、大胆な理論を公にし、その結果として百の間違いのうちに一つ二つの真を見付け出して学会に何がしかの貢献をし、また誤って大家の名を博する事さえある。しかし科学の世界ではすべての間…

「吾輩は猫である」夏目漱石

吾輩は猫である。名前はまだない。 どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。なんでも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。吾輩はここではじめて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中でいちばん獰…

「愚妻」高田保

私の愚妻は謙虚である。この謙虚をいとしく思うがゆえに私は、「いとしの」という意味で「愚」という形容をつけているのである。こういうニュアンスに富んだ表現はまことに詩的なものだ。封建的とかファッショ的とかいうものでは決してない。これをかりに私…

「掻痒記」内田百ケン

看護婦がその上から、ぎゅうぎゅう包帯を巻いたので、すっぽり白頭巾を被った様な頭になった。巻き方が固くて、特に縁のところが締まっている為、何だか首を上の方に引き上げられる様でもあり、又首だけが、ひとりでに高く登って行く様な気持ちもして、上ず…

「モオツァルト」小林秀雄

もう二十年も昔のことを、どういうふうに思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代のある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか…

「紫苑物語」石川淳

月あきらかな夜、空には光がみち、谷は闇にとざされるころ、その境の崖のはなに、声がきこえた。なにをいうとも知れず、はじめはかすかな声であったが、木魂(こだま)がそれに応え、あちこちに呼びかわすにつれて、声は大きく、はてしなくひろがって行き、…

「蟻と松風」竹西寛子

中空に無数の羅(うすもの)の襞を寄せ続けているような松風の音が、低いけれども規則正しい波音に重なる時、なぜかものの始まりの時に立ち会わされているような自分を知らされる。私は今、どうしてここにいるのか。これからどこへ行こうとしているのか。行…

「交友について」福原麟太郎

酔っぱらいがよく私にいう。酒がかあっと利いて来て、自分が無限に拡がったような気持になったとき、酒の法悦境(ほうえつきょう)があるのですよ。それを知らないで酒を飲むなんて無駄だ。つまらないですよ。あなたは人生の真の喜び、真の解放を知らないのだ…

「沖縄の手記から」田宮虎彦

待つという言葉は、私たちの心のありようを決して正しくはつたえなかったが、それは、やはり、待つというよりほかいいようはなかった。私たちはその日を待った。そして、その日は、待つ間もなく来た。

「溺レる」川上弘美

「死にましょうか」モウリさんが言った。 「そうねえ」わたしはあまり考えずに答えた。 そうねえ、というわたしの声が空に消えてから、二人で海岸を歩きはじめた。寒い日に海岸なんか、歩きはじめてしまった。 淡い雪が降っていて、積もったばかりの雪には、…

「休憩時間」井伏鱒二

――今は最早、私は知っている――青春とは、常にこの類の一幕(ひとまく)喜劇の一(ひと)続きである。壁に人体の素描をこころみるものは、なるべく大きな人体を肉太に描け。編上靴(あみあげぐつ)の紐をしめるものは、力をこめて紐をしめよ。窓から桜の花をむしり…

「斜陽」太宰治

朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、 「あ」 とかすかな叫び声をおあげになった。 「髪の毛?」 スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。 「いいえ」 お母さまは、何事もなかったように、またひらりと一さじ、スウプを…

「沈黙博物館」小川洋子

カーテンに映る窓の色は、刻々と変わっていった。闇が次第に薄れ、群青色が混じり、やがてそれも縁(ふち)から溶け出していった。風も雪も止んでいた。 一段と長く喉が鳴った。目蓋(まぶた)の下で眼球が微(かす)かに動き、唇が震え、老婆は最後の息を吐き出し…

「街の灯」岩本素白

同じ町並みに塩湯があって、そこから出て来たらしい三四人連れの女達が何か睦まじげに物語りながら、宵闇に白い浴衣を浮かせて通り過ぎたが、そのあとにはおぼつかない白粉(おしろい)の匂いが、重い夜気(やき)の中にほのかに漂っていた。それから、掘割(ほり…

「蚊帳」永井龍男

みんな寝静まった真夜中に、闇の底がほんのり明るんで、また暗くなる。その時蚊帳の釣ってあるのが見えるのは、眠れぬ誰かが寝床で一服したのである。やがて、はいふきをたたく音がして、静けさが戻ってくる。あるいは、うちわを使う気配とか、蚊の鳴き声が…

「蜜柑の花まで」幸田文

雪の日にあたたかい鍋のものをしたくするのは人情だし、また実際たべてもうまいに相違ないが、私はそれをわざとしたくなかった。雪が降るからこそ湯気の鍋よりむしろ潔く青い野菜などが膳へつけたかった。うちの者の声さえもこもるように深く降り積んだ晩だ…

「橋づくし」三島由紀夫

「一体何を願ったのよ。言いなさいよ。もういいじゃないの」 みなは不得要領に薄笑いをうかべるだけである。 「憎らしいわね。みなって本当に憎らしい」 笑いながら、満佐子は、マニキュアをした鋭い爪先で、みなの丸い肩をつついた。その爪は弾力のある重い…

「二十歳の火影(ほかげ)」宮本輝

明かりが点(とも)ると、真っ赤な長襦袢(じゅばん)が目の前に立っていた。あっと声をあげそうになったが、それはハンガーで壁に吊るされているのである。そのままそっと父を座らせたとき、長襦袢が畳の上に落ち、一(ひと)呼吸ののち、部屋に沈んでいた女の匂…

(西東三鬼)

秋の暮大魚の骨を海が引く

(百田宗治「人生」)

家のうへに屋根あり 屋根の上に月あるをおもふのみにて わが心足る

(島崎藤村『千曲川旅情の歌』)

昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ

(正岡子規『病牀六尺』)

悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた

(謡曲『船弁慶』・浄瑠璃『義経千本桜』)

跡(あと)白波とぞ なりにける 姿を消した跡の行方は知れず、跡には白波が残るばかりであったよ。(「跡白波」は「跡知らず」を掛ける。謡曲『船弁慶』及びこれを浄瑠璃化した『義経千本桜』二段目、通称「碇(いかり)知盛」の終末句)

(川端茅舎)

朴散華即ちしれぬ行方かな

(若山牧水)

かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな

(吉田兼好『徒然草』)

不定(ふじょう)と心得ぬるのみ、まことにて違(たが)はず 世のさまざまなことは、期待すれば当てが外れ、外れるかと思うと予期通りであったりする。それ故、不定(ふじょう)と心得るのが本当のことであって、そう考えている限り誤ることはない。