2013-07-01から1ヶ月間の記事一覧

内田百ケン『特別阿房列車』

一番いけないのは、必要なお金を借りようとする事である。借りられなければ困るし、貸さなければ腹が立つ。又同じいる金でも、その必要になった原因に色色あって、道楽の挙げ句だとか、好きな女に入れ揚げた穴埋めなどと云うのは性質(たち)のいい方で、地道…

志賀直哉『山鳩』

翌日、私は山鳩が一羽だけで飛んでいるのを見た。山鳩の飛び方は妙に気忙しい感じがする。一羽が先に飛び、四五間あとから、他の一羽が遅れじと一生懸命に随いて行く。毎日、それを見ていたのだが、今はそれが一羽になり、一羽で日に何度となく、私の眼の前…

川端康成『千羽鶴』

奥から菊治は手紙を持ってもどって来て、 「文子さんの手紙がとどいてましたよ。切手の貼ってない……。」 と、気軽に封を切ろうとした。 「いや、いや。御覧にならないで……。」 「どうして?」 「いやですわ。お返しになって。」 と、文子はいざり寄って、菊…

高田保『ブラリひょうたん』

若芽の雨 モウパッサンはバッシイの養老院の庭で、小石をばらばら花壇に投げつけていったそうだ。 「来年の春になって雨が降ったら、こいつがみんな芽を出して、小さなモウパッサンが生えるんだ……」 こんな話をすると誰もが一応面白がる。モウパッサンの文学…

大岡昇平『俘虜記』

まず私は自分のヒューマニティにおどろいた。私は敵をにくんではいなかったが、しかしスタンダールの一人物がいうように「自分の生命がその手にある以上、その人を殺す権利がある。」と思っていた。したがって戦場では望まずとも私を殺しうる無辜の人にたい…

尾崎一雄『虫のいろいろ』

八畳の南側は縁で、その西はずれに便所がある。男便所の窓が西に向って開かれ、用を足しながら、梅の木の間を通して、富士山を大きく眺めることが出来る。ある朝、その窓の二枚の硝子戸の間に、一匹の蜘蛛が閉じ込められているのを発見した。昨夜のうちに、…

坂口安吾『桜の森の満開の下』

男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。俄に不安になりました。とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。突然どッという冷めたい風が花の下…

木山捷平『大陸の細道』

正介は東京を出発する前夜、何年ぶりかで妻と同じ部屋でねた。寝たといっても、旅の支度をしながら、その夜も防空警報が頻発したので、電燈は消され、正介は足にゲートルを巻き、妻はモンペの紐をしめた服装で、夫婦は時々木に竹を接いだような話をかわした…

網野菊『風呂敷』

入浴中も、ミツは、木原のことを思い出すと、いまいましさに、いても立ってもいられぬ気持になった。それでも大分、心に余裕が出来て来たようである。余裕の出来た心で、ミツは、こういう時にこそ健康に注意せねばならぬと思ったりした。風呂から上ろうとし…

太宰治『富嶽百景』

三ツ峠、海抜千七百米。御坂峠より、少し高い。急坂を這うようにしてよじ登り、一時間ほどにして三ツ峠頂上に達する。蔦かずら搔きわけて細い山路、這うようにしてよじ登る私の姿は、決して見よいものではなかった。井伏氏はちゃんと登山服着て居られて、軽…

瀧井孝作『積雪』

老父は七八日病臥したらしかった。病臥して介抱などそうあてにせず、覚悟のよい大往生のようであった。裏に出ると、中庭に丈余の積雪が、軒端まで堆高く、氷りつめた固雪が縁端に白壁築いた姿であった。これで座敷は雨戸がなく直接冷やされていた体で、室内…

堀辰雄『風立ちぬ』

私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木陰に寝そべって果物を齧じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色が伸び…

坪田譲治『風の中の子供』

善太がお使から帰って来ると、玄関に子供の靴と女の下駄がぬいであった。 「三平らしいぞ。」 思わず微笑が頰にのぼって来る。それでも真面目くさって、 「唯今。」 と、上にあがって行く。座敷で、お母さんと鵜飼のおばさんとが話している。お辞儀をして側…

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』

元来書院と云うものは、昔はその名の示す如く彼処で書見をするためにああ云う窓を設けたのが、いつしか床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りと云うよりも、むしろ側面から射して来る外光を一旦障子の紙で濾過して、適当に弱め…

梶井基次郎『桜の樹の下には』

桜の樹の下には屍体が埋っている! これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいまやっとわかるときが来た。桜の樹の下には…

柳田国男『雪国の春』

花の林を逍遥して花を持つ心待ち、又は微風に面して落花の行方を思うような境涯は、昨日も今日も一つ調子の、長閑な春の日の久しく続く国に住む人だけには、十分に感じ得られた。夢の蝴蝶の面白い想像が、奇抜な哲学を裏付けた如く、嵐も雲も無い昼の日影の…

徳田秋声『風呂桶』

津島は猛烈に打った。彼女がいつも頭脳(あたま)を痛がるのは、自分の拳のためだと意識しながら、打たずにはいられなかった。近頃の彼に取っては、それはおかしいほど荒れた。そして人々に遮(ささ)えられたところで、床の間にあった日本刀を持出して、抜きか…

里見トン『椿』

蒲団へ転げ込んで、頭から夜着にくるまって、じッと息を殺し、耳をすましていた。 しいんとした。 暫くそうしていたが、息苦しくって耐えられなくなって来て、姪が、そうっと顔を出して見ると、いつの間にか叔母は、普段のとおり肩をしっかり包んで、こちら…

永井荷風『雨瀟瀟』

その年の二百十日はたしか涼しい月夜であった。つづいて二百二十日の厄日も亦それとは殆ど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西日に蜩の声のみあわただしく夜になった。夜になってからは流石厄日の申訳らしく降り出す雨の音を聞きつけたものの然し風は芭…

宇野浩二『蔵の中』

それは、四六時ちゅう殆ど止め間なしに、下宿人たちや、彼等の客たちや、それから下宿の女中たちが、まるでスリッパをはいた兵隊が行進するように、どたばたとがさつな音を立てて、私の部屋の前の廊下を往来することなのです。前にいいましたように、外の部…

久保田万太郎『末枯(うらがれ)』

べったら市が来た。――東京の真中に遠いこのあたりには、毎日、暗い、陰鬱な空ばかりが続いた。そうかといって降るのでもなかった。八幡さまの銀杏がいつか裸になって、今戸焼屋の白い障子、灰いろをした瓦竈(かわらがま)。そこに、坂東三津五郎の住居(すまい…

佐藤春夫『田園の憂鬱』

或る夜、庭の樹立がざわめいて、見ると、静かな雨が野面を、丘を、樹を仄白く煙らせて、それらの上にふりそそいで居た。しっとりと降りそそぐ初秋の雨は、草屋根の下では、その跫音も雫も聞えなかった。ただ家のなかの空気をしめやかに、ランプの光をこまや…

森鷗外『空車』

わたくしは此車が空車として行くに逢う毎に、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。車は既に大きい。そしてそれが空虚であるが故に、人をして一層その大きさを覚えしむる。この大きい車が大道狭しと行く。これに繫いである馬は骨格が逞しく、栄養が好い。そ…

武者小路実篤『お目出たき人』

その三月に再び間に立つ人――その人は川路と云った――に鶴の家に行って戴いて、求婚して戴いた、今度はこっちの名を云った。そうして結婚するのは何時まで待ってもいいと云った。自分は鶴を恋していた。そうして女に餓えていた自分は一日も早く鶴とせめて許嫁…

正宗白鳥『何処へ』

両手で頭を抱いて目を瞑った。すると帰宅の途中と同じい雑念が湧き上って留め度がない。天井には鼠が暴れまわって、時々チュッチュッと鳴声がする。一家四人はすやすやと眠っているが、毎夜その寝息を聞くぐらい彼れに取って厭な気のすることはない。人中へ…

夏目漱石『草枕』

固より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲りへかかる。 忽ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。只声だけが明らかに聞える。せっせと忙(せわ)しく、絶間なく鳴いて居る。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たたま…

国木田独歩『武蔵野』

日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染って、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖の様な雪が次第に遠く北に走て、終は暗澹たる雲のうちに没してしまう。 日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵…

岡本かの子『花は勁し』

地中のあらゆる汚穢を悉く自己に資する摂取として地上陽下に燦たる香彩を開く、その逞しき生命力。花は勁し。

伊東静雄『庭をみると』

花をみる時 私は 花の心になるのである

柳沢淇園『ひとりね』

名物と云てむまふなき物多く、名所といひて景すくなきもいとおほし。 *「名物にうまいものなし」の諺を生かし、名所に言い及ぼしている。