2015-06-01から1ヶ月間の記事一覧

ナボコフ『断頭台への招待』(富士川義之 訳)

「すべてが適当なところへ納まるようにぼくを欺いたのだ、すべてが。これこそこの生の行き止まりなのだ。そしてぼくは、その範囲内で救いを求めるべきではなかったのだ。救いを求めたなんて奇妙なことだ。現実には一度も手にしたことのないものを、夢のなか…

ナボコフ『断頭台への招待』(富士川義之 訳)

「ぼくの言葉はすべて一つの場所のまわりをただぐるぐるまわっているだけだ」

ナボコフ『断頭台への招待』(富士川義之 訳)

この世界にはぼくの言語を喋れる人間など一人としていないのだから。あるいは、もっと簡単に言うなら、喋れる人間など一人としていないのだから。あるいは、さらにもっと簡単に言うなら、人間など一人としていないのだから。

ナボコフ『断頭台への招待』(富士川義之 訳)

恐るべき〈ここ〉、そのなかに容赦なく呻吟する心が幽閉されている暗い監獄、この〈ここ〉がぼくを拘束し圧迫している。

ナボコフ『断頭台への招待』(富士川義之 訳)

あとでマルテは自分のことについてこう言うのだ(例によっていつも変わりなく一人称複数で)。「あなたに見られて、あたしたちとっても恥ずかしかったわ」と。

ナボコフ『断頭台への招待』(富士川義之 訳)

名前のないものは存在しないのだ。不幸にもすべてのものには名前があるのだ。 ※太字は出典では傍点

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

アア、いまは来るなら、来るがいい、どんなつらでも! イヤ、おれは、おまえらとは、別れはしない――見ず知らずの他人の縁もゆかりもないつら――おれのこの告白を読むかもしれない見知らぬやつらのつら、つら――ようこそ、ようこそ――肉体の部分部分の魅力にとん…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

詩 水平線はガラスびんのように砕け 緑のしみは雲をついてふくらむ ふたたび身をよせる松のこかげ そこから―― のみほす一息に最後のしずくまで ぼくはぼくの日々の春を。 おれの翻訳 ふくらはぎ、ふくらはぎ、ふくらはぎ ふくらはぎ、ふくらはぎ、ふくらはぎ…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

青春は、彼女にとって、過渡的な年代ではなかった。現代の娘にとって、青春というものは、人間の生涯に一回だけ現われる真実の本来的な時期だったのだ。成熟などというものを彼女は侮蔑していた。イヤ、彼女にとっては、未成熟が成熟にほかならなかった。顎…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

イヤ、それにしても、からかうということは、敬意の表現以外のなにものでもなかった。なぜならば、人を嘲る心の底には、人に気に入られたいという有害無益な欲望がひそんでいるのだから。もしおれが嘲弄をこととしたのなら、つまるところ、それはおれが嘲弄…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

「足。」現代性にたいするおれの関心をかきたてようとするのだ。「足にきまっている。わしはおまえたちを知っているのだよ、おまえたちのスポーツ、新しいアメリカナイズされた世代の風俗習慣のことを。手よりも足のほうがいいのさ、おまえたちにとっては足…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

「ですが、教授、そんな子供のような口をきかれて……」 すると、子供にかえった老人はそれに答えて言うのである。 「なにもかも、みんな、子供で裏うちされているんだよ。」

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

きみたち芸術家は自分の使う語句のすべてから身を避けるよう試みたまえ。自分の言葉を信じてはならぬ。自分の信念のまえで警戒を怠ることは禁物だ。自分の感情に心を許してはならない。外にむかって現われている自分から後退すること。なによりもまず、いっ…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

芸術の根本が形式の完成にあることは言うまでもないが、しかし、諸君にかかると――ここにもまたきみたちの根本的な誤謬がむきだしになって見える――芸術の根本は形式において非のうちようのない完璧な作品を作るところにあるなどという話になってしまう。形式…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

すでに諸君らのなかでは、お互い同士のあいだに嫌悪が、軽蔑が、敵意が生まれ育っている。だれもが人を軽蔑している。いや、おまけに、自分をも軽蔑している。自己軽蔑でもって結ばれた仲間。こうして、とどのつまり、諸君は自分で自分を死ぬほど軽蔑軽視す…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

それにしても、いったいわれわれが形式を作りだすのか、形式がわれわれを作りだすのか? われわれにしてみれば、構成するものはこのわれわれをおいて他にはないように思えるのだが、そんなことは――ただの幻想にしかすぎない。構成するわれわれは、同じ程度に…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

それから、筆者は繰り返しによって緊張を高める方法もまた読者にすすめたい。ある言葉なり、言い回しなり、状況なり、もしくは部分なりを組織的に繰り返すというこの方法のおかげで、筆者は、ほとんど偏執狂じみてくるまでにスタイルの統一性という印象を強…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

そして、初めておれには納得がいった――なぜこの学校からだれひとり逃げだすことができないでいるのか。ほかでもない、かれらの顔が、姿が、形全体が、かれらの内部にその働きをおよぼして、逃走の能力を殺してしまったというわけなのだ。みながみな自分の歪…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

「聞いたか?」ミェントゥスが言った。「おれたちゃ純潔だとさ! 純潔だと、こんちきしょう。あほう、くそくらえ! あいつはおれたちが純潔だと思いこんでるんだ。無邪気な天使だとみとめてるんだ。あいも変わらず純潔で無邪気だとよ、このおれたちが! 天真…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

学園にとじこめられ、実人生からきり離されているこの犬っころのような小僧どもが罪に汚れていないというのは、まったくの話、本当だったからだ。ソウ、かれらは邪気に満ちていながらも、無邪気だったのだ! 無邪気ではありたくないという欲求のうちで邪気が…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

諸君は、だれかの内部で諸君が縮小してゆくというこんな異常事を体験したことがあるだろうか?

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

出ていけ! 出ていってくれ! イヤ、こんなのがおれであるものか! こんななにやら行き当たりばったりの、よそよそしい、外からひっかぶせられたお仕着せみたいなものが。外部と内部の世界の妥協みたいなものが。こんなもの、おれの体であってたまるか! 分…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

どうも行き当たりばったりすぎて、必然性がない。なぜこうであって、ああではないのか?

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

無力な獣の笑い、まるでかかとをくすぐられでもしたような機械的な笑い、足の笑い、それこそもう顔ではなくて、おれの足がヒーヒー笑っているような感じだった。できるだけ早くこんなことにはけりを付け、少年時代とはきっぱり手を切って、意を決して新規ま…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

それとも、ひょっと、過渡期の時代――五分ごとに新しいスローガンを、新しい顔つきをこしらえて、ひきつけでも起こしたように、ありとあらゆるやりくちで自分の顔をしかめてみせる時代に、たまたまおれが生きているためだろうか?……

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

やりきれないばかりか、まったく、そら恐ろしいような状況。というのも、この未成熟、青くささほど、大人たちの嫌悪と憎悪の念を呼び起こすものはないからだ。どんなはげしい徹底した破壊にしろ、成熟という枠のなかで行なわれさえすれば、そんなものなどか…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

まるで貯金局に預金でもするように、幾世紀にもわたる古い文化体系をなかに立て安全確実に自己を生かしきること――これこそ自分にとっての満足でもあり、他人にとっての満足でもあるにちがいない。しかし、おれはあいにく青二才で、青くささがおれの唯一の文…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

まったくもう、どこやらの単純な人間がきみのことを単純だと思っているから、きみは単純だということになるので、馬鹿がばか呼ばわりするからこそ、きみは馬鹿にならざるをえなくなる――未成熟な手合いがその青くささにきみをひきずりこみ、青くさい汁にどっ…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

まったくもって、精神世界では絶えまない力ずくの凌辱が行なわれている。われわれは一人で生きているのではない。われわれは他人の機能でしかありはしない。どんなにふんばっても、われわれは他人が見ているようなそういうものとして、存在するほかないわけ…

ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

こういうわけで、おれはある者にとっては賢明な人間、べつの者には愚鈍な人間なのだった。ある者から見ると、ひとかどの人物、べつの者から見ると、目にもとまらぬような存在、一人の者にとっては平民的、もう一人の者にとっては貴族的に見えたというわけだ…