2009-02-01から1ヶ月間の記事一覧

森鷗外「ロビンソン・クルソオ」

譯者。僕は一體創業といふことが好きです。どうせ新しい事を起すには、周圍に反抗して、因襲を破つて行くのです。それですから、きつと親の同意を得てからする、きつと國家の承認を受けてからすると云ふ譯には行かないのですね。

森鷗外「ロビンソン・クルソオ」

譯者。さうですかね。僕だつて日本の國體は類のない、結構な國體だと思つてゐます。租税は甘んじて納めてゐます。一年志願兵を濟ませて、今でも豫備役になつてゐます。召集せられれば、いつでも出て行きます。親は大切にしてゐます。社會主義には反對です。…

森鷗外「ロビンソン・クルソオ」

譯者。なる程。それではあなたの宜しいと仰やるのは、只國法の許すことをしてゐて、それから國家が好いと認めてゐる徳義の標準に随つて生活してゐると云ふ丈ですね。それ丈の事なら、それは誰だつてしてゐますでせう。併しそれ丈では、人間は永遠に因襲の範…

森鷗外「さへづり」

百合子。爲立物師(したてものし)は大抵女なの。その相談がなか/\大戀(たいへん)よ。まあ、相談が纏まるまで一寸(ちょっと)三時間は掛かるのね。右へ向かせられる。左へ向かせられる。前から見る。背後(うしろ)から見る。着せられる。脱がせられる。間(あひ…

森鷗外「生田川」

處女(をとめ)。(戸口にて沓を穿く。)いゝえ、おつ母さん。あの鵠(くぐひ)が死にましたので、今日わたくしの身の上が、どうにか極(き)まらなくてはならないやうに思はれますの。(語氣緩かに強く。)人間の小さい智惠で、どうしようの、かうしようのと、色々に…

森鷗外「生田川」

處女(をとめ)。いゝえ。それが悪くはございませんの。唯わたくしには久しい間、極(き)まらないでゐた事が、そんなに急に極まるのが、恐ろしいやうでございますの。それにあの大きな鵠(くぐひ)を、今朝ふいと見た時から、なんだか氣に掛かつてゐたのに、あれ…

森鷗外「生田川」

處女(をとめ)。極(き)められないと申しますのは、それはあの、(徐かに立つ、)人間の力に及ばない事ではございますまいかと、思ふからでございます。

高橋順子「幸福な葉っぱ」(全)

木の下で雨宿りをしたことがあったね わたしの心に山のしずくが落ちていた あの ころ 葉むらの中のまるい小さな空を見上げたこと があったね 葉っぱの勲章を服にびっしり付けて それらを忘れないことが いいことかよくないことか知らない なにか急いでいたの…

金井直「河のふちで」(全)

ひとりの人間が河のふちに立つ それはざらにあることだ しかし 多くのものは語らない どこから来たかを そしてなお どこへ行くかを 河のふちに立ちながら しきりに昇天しようとしてはばたく雲雀を見 上げる ひっつれて痛むこころのために 雲雀よ静かにしろ …

岡本潤「罰当りは生きてゐる」(全)

あなたは一人息子を「えらい人」に成らせた かつた 「えらい人」に成らせるには学問をさせなけ ればならなかつた 学問をさせるには金の要る世の中で肉体より ほかに売るものを持たないあなたは何を売 らねばならなかつたか だのにその子は不良で学校を嫌つた…

蔵原伸二郎「きつね」(全)

狐は知っている この日当たりのいい枯野に 自分が一人しかいないのを それ故に自分が野原の一部分であり 全体であるのを 風になることも 枯草になることも そうしてひとすじの光にさえなることも 狐いろした枯野の中で まるで あるかないかの 影のような存在…

原民喜「コレガ人間ナノデス」(全)

コレガ人間ナノデス 原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ 肉体ガ恐ロシク膨脹シ 男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ 爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ 「助ケテ下サイ」 ト カ細イ 静カナ言葉 コレガ コレガ人間ナノデス 人…

三富朽葉「のぞみ」(全)

私は雑踏を追ひ求めて歩く、 人人に随つて行きたい、 明るい眺めに眩惑されてゐたい、 のぞみは何処にあるのであらう、 群集の一人となりたい、 皆と同じく魂を支配したい、 荒い渇きに嘔(むか)ついて、 私は雑踏を追ひ求めて歩く。

百田宗治「青空と宿命」(全)

一人の父親が はじめて子供を野原へ連れて行つた。 青く晴れた空とあたらしい芝生のなかで、 子供はゴム毬のやうに軽く弾んだが、 遠い樫の木の根方に歩み寄つて行くその後(うしろ) 姿を見て、 父親はそつくり幼(ちいさ)い自分がそこを歩いて行く やうな気が…

堀口大学「踊る女」(全)

雨のやうなきものが 形をささへる 踊る女は 倒れようとするのだが

大手拓次「河原の沙のなかから」(全)

河原の沙のなかから 夕映の花のなかへ むつくりとした円いもの がうかびあがる。 それは貝でもない、また魚でもない、 胴からはなれて生きるわたしの首の幻だ。 わたしの首はたいへん年をとつて ぶらぶらとらちもない独りあるきがしたいの だらう。 やさしく…

河井酔茗「春の詩集」(全)

あなたの懐中にある小さな詩集を見せてくだ さい かくさないで――。 それ一冊きりしかない若い時の詩集。 隠してゐるのは、あなたばかりではないが をりをりは出して見せた方がよい。 さういふ詩集は 誰しも持つてゐます。 をさないでせう、まづいでせう、感…

西脇順三郎「近代の寓話」(全)

四月の末の寓話は線的なものだ 半島には青銅色の麦とキャラ色の油菜 たおやめの衣のようにさびれていた 考える故に存在はなくなる 人間の存在は死後にあるのだ 人間でなくなる時に最大な存在 に合流するのだ私はいま あまり多くを語りたくない ただ罌粟の家…

高橋新吉「生」(全)

生きて居れば好いのだ 生きる中に凡てはふくまれてゐる

草野心平「生殖 I」(全)

るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる

嵯峨信之「*」(全)

歩いても歩いても 行きさきが分らない 永遠と一日とのあいだを行つたり来たりして いるのだろう 雨になつた そのときぼくにははじめてわかつたのだ 死んだあとの静かな土地には 地名が消えていることを

嵯峨信之「ヒロシマ神話」(全)

失われた時の頂きにかけのぼつて 何を見ようというのか 一瞬に透明な気体になつて消えた数百人の人 間が空中を歩いている (死はぼくたちに来なかつた) (一気に死を飛び越えて魂になつた) (われわれにもういちど人間のほんとう の死を与えよ) そのなか…

安西冬衛「春」(全)

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

壺井繁治「黙つてゐても」(全)

黙つてゐても 考へてゐるのだ 俺が物言はぬからといつて 壁と間違へるな

吉田一穂「母」(全)

あゝ麗はしい距離(デスタンス) 常に遠のいてゆく風景……… 悲しみの彼方、母への 捜り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ)。

千家元麿「母と憩ふ」(全)

もう嫁を貰つてもいゝ位の息子と 老いたる母と一緒に歩いてゐるのを見ると 俺は羨ましい位 母が幸福さうなのを感じる さうして嫁をもらつても 息子よ、お母さんに深切にしてあげろと頼み たくなる 人前の故か、それとももう息子は 母の愛より、外の愛を求め…

石川啄木「飛行機」(全)

見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを。 給仕づとめの少年が たまに非番の日曜日、 肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、 ひとりせつせとリイダアの独学をする眼の疲 れ…… 見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを。

与謝野鉄幹「誠之助の死」(全)

大石誠之助は死にました、 いい気味な、 機械に挟まれて死にました。 人の名前に誠之助は沢山ある、 然(しか)し、然し、 わたしの友達の誠之助は唯一人。 わたしはもうその誠之助に逢はれない、 なんの、構ふもんか、 機械に挟まれて死ぬやうな、 馬鹿な、大…

津村信夫「孤児」(全)

声が非常に美しい娘であつたから、死床の父 がささやいた。 ――御本(ごほん)を読んでおくれ、お前の声のきこえ るうちは私も生きてゐたい。 娘が看護(みとり)の椅子に腰かけて頁をきり初める と、父は、いつのまにか寝入つてゐた。 孤(ひと)りになつてからも…

高田敏子「橋」(全)

少女よ 橋のむこうに 何があるのでしょうね 私も いくつかの橋を 渡ってきました いつも 心をときめかし 急いで かけて渡りました あなたがいま渡るのは あかるい青春の橋 そして あなたも 急いで渡るのでしょうか むこう岸から聞える あの呼び声にひかれて