2014-03-01から1ヶ月間の記事一覧
指導者のいないために統制のとれていない群衆ほど、なにをしでかすか予測も立たず怖ろしい存在はないのだが、一面、これほどもろいものもないのである。
すべて慰めは卑劣だ。絶望だけが義務だ。
自分の敵たちから学ぶということは、彼らを愛するための最善の道である。なぜなら、そうすることで私たちは、彼らに感謝する気持ちになるからである。
民衆(ポポロ)は、群れをなせば大胆な行為に出るが、個人となれば臆病である。
慰めは、無意味なことばだ。 絶望し得ないものは生きてはならない。
敵を殺そうと思う者は、まさにそのことによって敵を自分の心のなかで永遠化することにならないかどうか、よく考えてみるがよい。
ここでは、民衆(ポポロ)に関して、次の二つのことに注目してほしいのだ。 第一は、民衆というものはしばしば表面上の利益に幻惑されて、自分たちの破滅につながることさえ、望むものだということである。 第二は、そしてもしも、彼らから信頼されている人物…
天国にひとりでいたら、 これより大きな苦痛はあるまい。
真の男のなかにはひとりの子供が隠れている。この子供が遊びたがるのだ。さあ、君ら女性たちよ、ぜひ男のなかの子供を見つけ出してくれたまえ!
人は、大局の判断を迫られた場合は誤りを犯しやすいが、個々のこととなると、意外と正確な判断をくだすものである。 だから民衆も、巨視的な視野を要求される事柄の判断力では頼りにできないが、ミクロな事柄ならば、多くの場合正確な判断をくだせるのだ。 …
われわれが不幸または自分の誤りによって陥る心の悩みを、知性は全く癒すことができない。理性もほとんどできない。時間がかなり癒してくれる。これにひきかえ、固い決意の活動は一切を癒すことができる。
自己軽蔑という男性病には、利口な女に愛されるという薬がいちばん確実に効く。
これだけは、民衆(ポポロ)に言いたい。このことだけは、肝に銘じて覚えておいてほしい。為政者であろうと指導者と呼ばれようと、支配者の存在しない社会は、あったためしはないのである。 だから、それをする人を選ぶときは必らず、その人々が権力を濫用しよ…
仕事の圧迫は心にとってきわめてありがたいものだ。その重荷から解放されると、心は一段と自由に遊び、生活を楽しむ。仕事をせずにのんびりしている人間ほどみじめなものはない。そんな人はどんなに美しい天分もいとわしく感じる。
子孫を持つということ――そのことではじめて人間は持続性と関連性を持ち、断念する力を持った存在となる。つまり子孫を持つことは最良の教育なのだ。親というものは常に、子供たちによって、それも最も精神的な意味まで含めたあらゆる意味での子供たちによっ…
市民間に平等が存在しない国では、共和制は成立しえず、存在する国では、君主制は成立しえない。
「なぜ、私は移ろい易いのですか。おお、ジュピターよ」と、美が尋ねた。 「移ろい易いものだけを美しくしたのだ」と、神は答えた。
自然へと人間がたどり着くのは長い戦いの後である――人間は決して「還って」行くのではない。
古の歴史家たちは、次のように言っている。 人間というものは、恵まれていなければ悩み、恵まれていればいたで退屈する。そしてこの性向からは、同じ結果が生ずるのだ、と。
あらゆることにおいて公平であるということは愚かしいことである。 それは自我を破壊するというものである。 人間はその狭い本性の中に、 愛と憎しみという二重の感情を必要とする。 人間は昼と同様、夜を必要としないだろうか。
自分が愛されることを要求するのは、思い上がりの最たるものである。
君主は、民衆がなにか誤りを犯したとしても苦情を言うことはできない。 なぜなら民衆の犯した誤りは、統治者側の怠慢からか、そうでなくても、統治者が犯したことを、彼らもまた踏襲しているにすぎないからである。 リヴィウスは言っている。 「大衆は常に、…
真理はわれわれの性質に逆らい、誤りは逆らわない。しかも、きわめて簡単な理由によってである。即ち、真理は、われわれが自分を限られたものとして認識すべきことを要求するのに反し、誤りは、われわれが何らかの仕方で限られないものであるかのように、お…
だれでも自分を低くする者は、高くされることを望んでいる。
第一は、人間というものは新しいこととなるとなんにでも魅了されるもので、現在の状態に満足していない者はもちろんのこと、満足している者まで、変ったことを求める性向では同じだということである。 この、変化を好む人間の気分が、それをもたらす者が外部…
真のあらわれを楽しめ、 厳粛な遊戯を楽しめ。 凡そ生きているものは一ではなく、 常にそれは多である。
君たち自身と同じように君たちの隣人を愛しなさい。ただし、君たちが君たち自身を愛していることが前提だ。
今までにも幾度も述べてきたように、人の運の良し悪しは、時代に合わせて行動できるか否かにかかっているのである。
かの一は、永遠に一であろう。 多に分かれても、一。永遠に唯一のもの。 一の中に多を見いだせ。多を一のように感ぜよ。 そうすれば、芸術の初めと終わりが得られる。
すべて行動のためには忘却が必要である。それはすべての有機体が、生きるために光のみならず闇をも必要とするのと同じだ。[……]記憶をほとんど持たずに生きることは可能であるし、幸福に生きることすら可能であるが、[……]しかしおよそ忘却なしで生きるこ…