2011-09-01から1ヶ月間の記事一覧

クシシュトフ・ザヌーシ「アンドレイ・タルコフスキーを回想して……」(岩本和久 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

アメリカでの公開討論の時、『ノスタルジア』の上映の前に、私はナイーヴなアメリカの観客の質問を通訳した。この観客は、アンドレイの中に精神的な指導者を見て、質問したのだ。「幸福になるために、私は何をせねばならないのですか?」アンドレイは、この…

「タルコフスキーとコージンツェフの往復書簡から 「私はよく、あなたのことを考えます……」」(岩本和久 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフス

A・タルコフスキーからG・コージンツェフへ 作品がはかどらないほど、素晴らしい結果のチャンスが大きくなるのです。

「インタビュー アンドレイ・タルコフスキー映画芸術について語る」(沼野充義 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

しかし、残念ながら、この二十世紀に支配的なのは、個人主義者である芸術家が、芸術作品の創造を目指すかわりに、それを自分自身の「私」を突出させるために利用するという傾向です。芸術作品はそれを作り出す者の「私」を表現するための手段となり、言わば…

「インタビュー アンドレイ・タルコフスキー映画芸術について語る」(沼野充義 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

映画は二十一世紀にとって、トルストイやドストエフスキーの小説と同等の意義のある作品を作り出す能力を持っている。その上、私は固く信じているのだが、現代において自国の文化の水準を何よりもよく表すことができるのは、まさに映画なのだ。古代において…

ウラジーミル・セドーフ「タルコフスキーとシェイクスピアの『ハムレット』」(井上徹 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

タルコフスキー 「そもそも、今日の演劇における方法論や俳優術には、私の見るところ、山のように問題がある。主として表現手段の美学に関わる問題だ。たとえば、役者が感情やあからさまな激情に身をゆだねることがよくある。何のためか。そういう感情にとら…

ウラジーミル・セドーフ「タルコフスキーとシェイクスピアの『ハムレット』」(井上徹 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

私の考えでは、彼は孤独を嫌い、ひとりでいるのを嫌っていたが、彼一流の皮肉とユーモアを込めて、一度ならずこんな名言を繰り返した――「孤独は個人の特権である」。

ウラジーミル・セドーフ「タルコフスキーとシェイクスピアの『ハムレット』」(井上徹 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

タルコフスキー 「私は俳優だったことは全然ないが、どんな場合でも第四の壁を壊して、具体的に客席の誰かに向かって何か言ったりしてはいけないと思う。そんなことをすれば、何かが駄目になる。それが何かはわからないが、何かが駄目になることは絶対はっき…

オクサナ・ムシエンコ「タルコフスキーと「存在の哲学」のイデア」(宇佐見森吉 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

タルコフスキーはしばしば、自分の主人公は弱い人間であると語った。だが彼の言う弱い人間たちは責任を逃れることも、他人に押しつけることもせず、自分が世界の一員であること、世界に責任を負っていることを自覚しながら生きている。タルコフスキーの「弱…

ワレンチン・ミハルコーヴィチ「映像のエネルギー」(西周成 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

タルコフスキーにおいて雨は特に重要な、出来事の意味内容にとって本質的な瞬間に流れており、それゆえそれ自体本質的だと思われる。もしかしたら監督はそれに、古代中国の思想家達と同じ意味を込めたのかもしれない。彼らにとって雨は、「陰」と「陽」とを…

ヴィクトル・ボジョーヴィチ「詩的言語とアンドレイ・タルコフスキーの映像世界」(宇佐見森吉 訳)

個人の生存の時間、伝記的時間というものが、宇宙の暦に照らしてみれば実にわずかな一瞬にすぎないとしても、それでもその一瞬が確かに宇宙の生命と繋がっているという感覚、人々や王国の千年の歴史、文化の歴史と、過去や未来と繋がっているという感覚がこ…

セミョン・フレイリフ「時間の鋳型」(大月晶子 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

人はただ自分自身にのみ属しているものではなく、鏡を通して見るように、他人の中に自分を見ることができる、つまり、よりよく自らを理解することができるのである。

セミョン・フレイリフ「時間の鋳型」(大月晶子 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

タルコフスキーは『列車の到着』を、「天才的な映画」と呼ぶ。なぜなら「ここから全てが始まった」からだ。こう言う時、彼は、映画はただ、撮影用カメラとフィルムと映写装置が発明されたが故に撮影されているのだということをはっきりと理解しているのであ…

セミョン・フレイリフ「時間の鋳型」(大月晶子 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

タルコフスキー自身、その定義をカッコに入れて、それに以下のような性格づけをしていたのである。「「詩的映画」とみなされているのは、自分のイメージの中で、あえて現実の生活が提供する具体性から遠ざかり、それと同時に自分独自の全体構造を確立してい…

エルランド・ヨセフソン「私はすぐに引き受けた」(井上徹 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

本当に大変なんです。多くのことを感じながら、僅かなことを伝えるというのは……。

エルランド・ヨセフソン「私はすぐに引き受けた」(井上徹 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

ベルイマン監督の場合には、普通の俳優的伝統にのっとった演技――すなわち、登場人物について、その性質や本質についてできるだけ多く語り、映画を見た観客が最大限の情報を得るような演技をしなければならないのですが、一方、タルコフスキー監督にとってい…

スヴェン・ニクヴィスト「タルコフスキー監督賛」(井上徹 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

画面に表現力を与えるのは、光の量ではありません。その逆です。雰囲気をかもし出すのは、できる限りおさえた照明なのです。

レオニード・バトキン「自分の声を恐れずに」(中村唯史 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

しかしまた「何かのために生きる」ということも不可能だ。たとえその何かがとても大切なことであったとしても、それは生それ自身の過程にとっては表層の目的に過ぎないからである。

レオニード・バトキン「自分の声を恐れずに」(中村唯史 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

鏡の中の自分を見つめる行為は十分な密接さと集中力を伴うが、同時にある距離と違和感をも必ずや帯びているものである。鏡は向きと形を変えつつ、いつも仮借ない真実を我々に伝える。我々は鏡の中に自分自身の視線を見るが、それは同時に鏡の中の視線が我々…

レオニード・バトキン「自分の声を恐れずに」(中村唯史 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

真の意味での自分に出会うためには、人は自分自身と一度訣別しなければならない。自己の分裂は、全一性に至るための必要条件である。ただしここで言う全一性とは所与のものではなく、努めて獲得されるもの・内省的な性質のものであり、それはみづから変化し…

ジャン=ポール・サルトル「『僕の村は戦場だった』について」(斉藤毅 訳)(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル 編、沼野充義 監修『タルコフスキーの世界』所収)

つまり、歴史は人間を選んで、その上に跨がり、自分の重さで潰してしまいます。

阿部嘉昭『北野武VSビートたけし』

しかしよく考えてみれば、露わな肉体はTV的現代にあっては常に忌避の対象だった。つまり肉体の実在感が顕著な映画は、TV的感性が多くの観客を支配する現代においては、嫌悪の対象となるのである。

阿部嘉昭『北野武VSビートたけし』

蓮實「『あの夏、いちばん』の場合は自分で編集なさったわけでしょう。他人には任せられないっていうことですか」 北野武「そうですね。要するにあの映画、日本人の能の間だと思っているから、映画を撮っているときに見てるのは自分だし、わりかし自分の心臓…

阿部嘉昭『北野武VSビートたけし』

ノスタルジア自体、タルコフスキーによって映画的にも明らかにされたように、それは世界とは何ら有機的関わりをもてぬ人間が極度の断片として犬死する際の否定的要因にしかならない。ノスタルジアとは現代の人間がもっとも確実に死に至るための内在的劇薬で…

阿部嘉昭『北野武VSビートたけし』

巨大な同一性の場となるTVの中にはがんらい他者は存在しない(ニュース画面における犯罪者や、悪意をもって眺められたタレント、俳優のみが例外的に他者性を獲得する)。

阿部嘉昭『北野武VSビートたけし』

TVはTVを自己言及する――それしかしないというTV的問題の所在が明確化されるだろう。TVは常に自らがTVであることを語っている。TVは質問し、同時に自らの質問が質問であることによって回答する。あるいは回答し、同時に自らの回答が回答であることによって質…

前田英樹「ゴダール的〈結合〉について」(「現代思想臨時増刊号 ゴダールの神話」所収)

仰向けに倒れたミシェルを、パトリシアと刑事たちとが取り囲んで見下ろす。ミシェルはかすかに笑いながら、パトリシアに「おまえは、ほんとに最低(dégueulasse)だ」と言う。彼女は、俗語のdégueulasseがわからず、刑事に「彼はなんて言ったの」と尋ねる。…

小谷真理「カルメンを殺した男」(「現代思想臨時増刊号 ゴダールの神話」所収)

もともと視覚がもっぱら男性的なものと手を結ぶオペラの舞台構成において、音楽とは要するに前テクストであり、通常「自然」のなかに抑圧され、目には見えない存在である点で、女性的なものと関連する。

多和田葉子「「新ドイツ零年」と引用の切り口」(「現代思想臨時増刊号 ゴダールの神話」所収)

むしろ、書物という、紙で出来た奇妙なオブジェは、スクリーンの上では消されるべき運命にある。それをゴダールがあえて大映しにするのは、引用が引用であることを目に見えるようにすること自体に重要な意味を認めているからに違いない。書物は、破壊された…

多和田葉子「「新ドイツ零年」と引用の切り口」(「現代思想臨時増刊号 ゴダールの神話」所収)

かけらは〈全体〉ではない。映し出されるかけらは、引用なのである。でも、かけらにはかけらならではの強い身体性がある。それとは対照的に、〈全体〉というのは概念であるから身体性に欠ける。だから、人文字、整列、大集会、行進などの形で、生きた人間の…

ホッブズ『リヴァイアサン』(水田洋 訳)

すなわち、神はかれの天上の召使たちを名前によって区別する必要がないのであり、名前は、死すべきものたちのみじかい記憶にとってのみ、有用なのである。