2011-07-01から1ヶ月間の記事一覧

三島由紀夫『春の雪 豊饒の海(一)』

「僕らは生きていて、死を豊富に所有している。葬いに、墓地に、そこのすがれた花束に、死者の記憶に、目のあたりにする近親者たちの死に、それから自分の死の予測に。 それならば死者たちも、生を豊富に多様に所有しているのかもしれない。死者の国から眺め…

三島由紀夫『春の雪 豊饒の海(一)』

一瞬の躊躇が、人のその後の生き方をすっかり変えてしまうことがあるものだ。その一瞬は多分白紙の鋭い折れ目のようになっていて、躊躇が人を永久に包み込んで、今までの紙の表は裏になり、二度と紙の表へ出られぬようになってしまうのにちがいない。

山本七平『「空気」の研究』あとがき

現代でも抵抗がないわけではない。だが「水を差す」という通常性的空気排除の原則は結局、同根の別作用による空気の転位であっても抵抗ではない。従って別「空気」への転位への抵抗が、現「空気」の維持・持続の強要という形で表われ、それが逆に空気支配の…

山本七平『「水=通常性」の研究』

一瞬でその場の「空気」は崩壊する。これが一種の「水」であり、そして「水」は、原則的にいえば、すべてこれなのである。そしてこの言葉の内容は、いまおかれている自己の「情況」を語ったのにすぎないわけである。そしてその一言で、人は再び、各人の日々…

山本七平『「空気」の研究』

こうなる「空気」とは、一つの宗教的絶対性をもち、われわれがそれに抵抗できない〝何か〟だということになる。

山本七平『「空気」の研究』

むしろ日本には「抗空気罪」という罪があり、これに反すると最も軽くて「村八分」刑に処せられるからであって、これは軍人・非軍人、戦前・戦後に無関係のように思われる。

山本七平『「空気」の研究』

「せざるを得なかった」とは、「強制された」であって自らの意志ではない。そして彼を強制したものが真実に「空気」であるなら、空気の責任はだれも追及できないし、空気がどのような論理的過程をへてその結論に達したかは、探究の方法がない。だから「空気…

山本七平『「空気」の研究』

採否は「空気」がきめる。従って「空気だ」と言われて拒否された場合、こちらにはもう反論の方法はない。人は、空気を相手に議論するわけにいかないからである。「空気」これは確かに、ある状態を示すまことに的確な表現である。人は確かに、無色透明でその…

山本七平『「空気」の研究』

日本の道徳は、現に自分が行なっていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、〝口にしたということが不道徳行為〟と見なされる。従ってそれを絶対に口にしてはいけない。これが日本の道徳である。

竹内敏晴『教師のためのからだとことば考』

「呼びかける」とは、実は、呼ばれていることに応えることなのだ

竹内敏晴『教師のためのからだとことば考』

人と人とのまじわりは、根元的に、わたしがあなたとふれ合うことに始まる、とわたしは考える。だが、相手に「ふれる」と願う行為の最も大きな盲点は、実は自分の思い込みや習慣の内に他人を取り込もうとしているのだと気づくことが極めて難しいことにある。 …

竹内敏晴『教師のためのからだとことば考』

見掛けの話を裏切るのは姿勢(=からだの動き)だけではない。話しことばの音響としての実質である声もまたそうです。

竹内敏晴『教師のためのからだとことば考』

アクションが他者まで届き完結することはかくもむつかしい。ことばの語尾はそのゴール、いやむしろ踏み切り板だと言ったほうがいいかも知れません。

竹内敏晴『教師のためのからだとことば考』

語尾までアクションが貫徹せず、一見きちんとみえるが、実は他人から逃げている、という防衛の仕方をしている人はかなり多いのです。他人を恐れて声が出なくなるという例はわかりやすいのですが、声は朗々と出ている人の、いわば「開かれた閉ざし方」は自他…

竹内敏晴『教師のためのからだとことば考』

姿勢が変わるとは、人の生き方、他者への対応のしかた、それ全体が変わることなのです。

竹内敏晴『教師のためのからだとことば考』

ヨーロッパ人の姿勢の基本は、キリスト教会のように、上へ上へと伸びあがります。そのいちばんはっきりした例はバレエでしょう。爪先立ち、胸は高く支えられ、頭はもたげられる。そして手は水平に、無限のかなたへ向かってさしのべられる。歩くにも腰から動…

三島由紀夫『音楽』

「いいえ、私と附合っているうちに、あの人、不能が治ってしまったんです。そのとたんに、私、あの人が、虫酸が走るほどイヤになってしまったんです」

三島由紀夫『音楽』

「ヒステリーとはおどろくべきものだよ。ヒステリーがいろんな病気を真似することはよく知られているが、ヒステリーはヒステリーの真似をすることすらできるんだ」 ※太字は出典では傍点

三島由紀夫『音楽』

「あんまり自分の良心を責め、自分の美しい気持をも醜悪に解釈するのは病的なことですよ」

三島由紀夫『音楽』

人間というものは、自分の努力している目標の前に、ことさら自分で障害を設定する

太宰治「冬の花火」

ああ、これも花火。(狂ったように笑う)冬の花火さ。あたしのあこがれの桃源境も、いじらしいような決心も、みんなばかばかしい冬の花火だ。

太宰治「冬の花火」

冬の花火、冬の花火。ばからしくて間が抜けて、(片手にパチパチいう花火を持ったまま、もう一方の手で涙を拭く)清蔵さん、あなたもあたしも、いいえ、日本の人全部が、こんな、冬の花火みたいなものだわ。

太宰治「十五年間」

サロンは、諸外国に於いて文芸の発祥地だったではないか、などと言って私に食ってかかる半可通も出て来るかも知れないが、そのような半可通が、私のいうサロンなのだ。世に、半可通ほどおそろしいものは無い。こいつらは、十年前に覚えた定義を、そのまま暗…

太宰治「駈込み訴え」

「寂しいときに、寂しそうな面容(おももち)をするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかって貰おうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ」

太宰治「駈込み訴え」

怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。

太宰治「女生徒」

幸福は一夜おくれて来る。

太宰治「女生徒」

女は、自分の運命を決するのに、微笑一つで沢山なのだ。

安部公房『第四間氷期』

人間はただ、存在するというだけで、もう義務を負わせられるべきものなのか?……そうかもしれないとも思う、親子喧嘩で裁くのはいつも子供のほうにきまっている……たぶん、意図の如何にかかわらず、つくった者が、つくりだされた者に裁かれるというのが、現実…

安部公房『第四間氷期』

知るという言葉の正しい意味は、秩序や法則を見ることなどではなしに、むしろ混沌を見ることだったのだろうか……?

安部公房『第四間氷期』

「いまも、こんな無駄口をききながら、ぼくらは人殺しをしているのかもしれないぞ」