2010-07-01から1ヶ月間の記事一覧

(杉九兵衛『舞台百箇条』)

狂言の実(じつ)は虚よりおこり、をかしき事は実よりせねば無理あてになる也 歌舞伎の真実ありのままを写す演技は本来作り事から生まれ、観客を笑わせるような演技は作り事でない正真の演技を基盤にしないと、無理に受けを期待するような不自然なことになる…

(近松半二『独判断―半二遺草跋―』)

自堕落ものが則(すなわち)作者となるなり だらしない人間がそのまま作者となるのである。(ここでの「作者」は浄瑠璃作家のこと)

(近松門左衛門『難波土産』)

文句は情をもととすと心得べし 浄瑠璃の文句はそこに感情を込めることを根本とすると心得るべきである。

(近松門左衛門『虚実皮膜論』)

芸といふものは、実と虚との皮膜(ひにく)の間にあるものなり 「芸」というものは実とも虚ともいえない微妙な表現によってはじめて生み出されるものである

(服部土芳『三冊子』)

師の風雅に、万代(ばんだい)不易あり、一時の変化あり 師の芭蕉の俳諧には、永遠に不変の面と、時々刻々変化する面とがある。

(松尾芭蕉『笈の小文』)

造化に順(したが)ひ、造化に帰れ。 天地の造物主にしたがって私意をすてよ。

(松尾芭蕉『笈の小文』)

見るところ花にあらずといふことなし。思ふところ月にあらずといふことなし 眼にみえるもの、心に映ずるもの、すべて美しい。

(松尾芭蕉『三冊子』)

絶景にむかふ時はうばはれて叶はず 絶景に対する時は、心が奪われて自由にならず、句にまとめることができない。

(松尾芭蕉『三冊子』)

松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ 物に対するとき、私意私情を捨てなければ、その物の本質がみえてこない。心にそのものの句となるべき機微が光りあらわれない。私意を離れ去って物を見るとき、松には松の、竹には竹の、それぞれの物に固有の本情・本質が…

(松尾芭蕉『三冊子』)

高く心を悟りて、俗に帰るべし 風雅の誠を責め勤め、自己の心を高く悟って、日常卑近の世界を詠む俳諧に向かうべきだ。

(松尾芭蕉『三冊子』)

俳諧の益(えき)は俗語を正す也(なり) 俳諧が役に立つ点は、日常語を正して詩語に高めることだ。

(松尾芭蕉『三冊子』)

句は天下の人に叶へる事は易し。ひとりふたりに叶へる事かたし 句というものは、世間一般の好みにかなうことはたやすい。が、一人二人の具眼の士の心に叶うことは至難のことだ。

(松尾芭蕉『三冊子』)

俳諧はなくてもあるべし 俳諧の作品はなくてもよいのです。

(松尾芭蕉『三冊子』)

物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし 物を熟視するうちに、その物の本質がひらめく光として感じられ、まだ心の中に消えないうちに句作せよ。

(松尾芭蕉『三冊子』)

俳諧は三尺(さんせき)の童(わらべ)にさせよ 俳諧は、無知で巧みのない幼い児童にさせてみよ。(子どものように、計らいがなく物事の核心を把んだ俳諧をせよ、の意)

(松尾芭蕉『三冊子』)

俳諧いまだ俵口(たわらぐち)をとかず 私の俳諧は、俵の米にたとえると、俵口をまだ解かぬほどわずかの事しかしていない。

(松尾芭蕉『三冊子』)

この道に古人なし この俳諧の道に、古人はいないに等しい。

(松尾芭蕉『去来抄』)

俳諧は気先(きさき)を以て無分別に作すべし 俳諧は気勢に乗って思慮を加えずに作るのがよい。

(松尾芭蕉『去来抄』)

句調(ととの)はずんば舌頭(ぜっとう)に千転(せんてん)せよ 句の調子が整わないときは、口に千回のぼせてみよ。

(松尾芭蕉『去来抄』)

謂ひ応せて何かある 発句というものは、表現したいことをすべて言い尽くして何が残るのだ。

(向井去来『旅寝論』)

きのふの我に飽く 昨日の自己に満足しない。

(松尾芭蕉『宇陀法師』)

多年俳諧すきたる人よりは、外の芸に達したる人、はやく俳諧に入(い)る。 長年俳諧に熱中している人より、他の芸にすぐれている人の方が、はやく俳諧の奥義を体得する。

(松尾芭蕉「柴門の辞」)

古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ 古人の遺業の形骸を追い求めずに、古人の理想としたところを尋ね求めよ。

(世阿弥『風姿花伝』)

稽古は強かれ情識(じょうしき)はなかれ 稽古はきびしく自己に課さなければならない。習うかぎりは強情頑固であってはならない。

(二条良基『筑波問答』)

昨日と思へば今日に過ぎ、春と思へば紅葉(もみじ)に移ろふさまなどは、飛花落葉の観念もなからんや (連歌というものは)昨日と思っていると今日を過ぎ、春の(句)と思っていると紅葉の移ろうさまを詠ずるので、飛花落葉(ものごとの移ろいのはやさ、無常)…

(二条良基『連理秘抄』)

詞(ことば)は花の中に花を尋ね、玉の中に玉を求むべし 詞(ことば)というものは選ぶときは、花(洗練度の高い優雅な表現)の中にさらに美しい花を尋ね、あるいは宝玉の中にさらにすぐれた宝玉を求めるように、すべきなのである。

(藤原定家『詠歌大概』)

和歌に師匠なし 和歌には師匠はいない。(すべて自得するものである。)

(藤原定家『詠歌大概』)

情(こころ)は新しきを以て先(せん)となし、詞(ことば)は古きを以て用ふべし (和歌の)情(こころ)―内容―はあくまで従来詠ぜられていない新しさを目指すべきであり、一方詞(ことば)―表現―は珍奇さを求めず伝統に即したものを用いるよう心がけるべきである。

(紫式部『源氏物語』)

日本紀などは、ただ片そばぞかし 『日本紀』は、六国史など官撰国史の総称。歴史書などは事実を語っているようであるが、じつはほんの一面を描いているにすぎないのだ

(芥川龍之介『侏儒の言葉』)

危険思想とは常識を実行に移さうとする思想である