2009-05-01から1ヶ月間の記事一覧

夏目漱石「英文学形式論」

さもあれ、吾々が彼等の持つ歴史的趣味から自由であると云ふことは、一方から見れば幸福であるが、他方から見れば不幸である。一方に束縛を持ない為、他方に彼等と同じ趣味を共有する権利を失つて居る。それで、吾々が英文の形式を取捨するに当つて第一に重…

夏目漱石「英文学形式論」

ブルックは「文学の形式は読者に快楽を与へるやうに排列した言葉である」と云つて居る。私も一切著作(エニー、リットュン、ウァーク)の形式(フォーム)は趣味(テースト)――好(ライク)、不好(ディスライク)の義で、哲学上の六ヶ(むずか)しい意味ではない――に訴…

夏目漱石「英文学形式論」

吾々の日常使用する言語の中には、其の内容の曖昧朦朧(ヴェーグ、アンド、オブスキューア)なものが多い。吾々は此を使用するに当り、その内包、外延(インテンスィーヴ、アンド、ヱキステンスィーヴ)の意味(ミーニング)を知らずに唯曖昧の意味を朧げに伝へる…

夏目漱石「マクベスの幽霊に就て」

文学は科学にあらず。科学は幻怪を承認せざるが故に、文学にも亦幻怪を輸入し得ずと云ふは、二者を混同するの僻論なりと。去れど文芸上読者若(もし)くは観客の感興を惹き得ると同時に、又科学の要求を満足し得んには、何人も之を排斥するの愚をなさざるべし…

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

著者の考と評者の考とは必ず一致するものではない。評論其物が精確であれば、著者は之に対して郢書燕説(えいしょえんせつ)の不平を持込むべき次第のものではない。鳴雪や子規が頻りに蕪村の句を評して居るが、銘々区々である。時としては何れも蕪村の意を得…

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

然し文学は情に訴ふるものであるといふ事を思ひ、吾人の情は如何に幼稚であるかを思ひ、又情の極即ち愛の前には如何なる条理も頭が上がらぬ事を思へば、「アレン」は失敗して、「ダントン」は成功したと云はねばならぬ。

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

理の勝つ時には情の勢力を無視し易きものである。又情の理に後るゝ事を忘却し易きものである。一概には申されまい。

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

偖(さて)人の言語動作は、己の知り得たる理に基かずして、己の養ひ得たる情に基くものである。日清戦争の当時如何に御札御守の類が流行したかを知れば、如何に吾人の感情が幼稚にして、又勢力あるかを知るに足るだらう。

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

情も変遷するに違ひない。然し理と手を携へて並行に進むものではない。太古結縄(けつじょう)の民と汽車汽船に乗る吾々とは、理に於て非常な差があるかも知れぬが、情より論ずれば夫程の差はあるまい。近い例が十四五年前に言文一致の議論が大分盛(さかん)な…

夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

英国の小説を読んで第一に驚かされるのは、非常に長たらしいと云ふ事である。無論短いのもあるが、十八世紀より今世紀へかけて出版になつた大部分の小説は皆冗漫なものだ。少くとも無用の篇を省いて、此半分につゞめたら善(よか)ろと思ふ位である。尤も前方…

夏目漱石「英国の文人と新聞雑誌」

此稿は極めて乱雑であるが一括して云へば初の新聞紙は皆政治的のものである。政治的でないものも文学的趣味に乏しかつたのである。夫が段々発達して有(あら)ゆる種類の文学が新聞雑誌の厄介になると云ふ時代になつた。是に連(つ)れて文学者と新聞雑誌との関…

夏目漱石「英国の文人と新聞雑誌」

文人詩人の資格を具へて居つても眼丁字(ちょうじ)なしと云ふ様な者は詩想を表彰する事が出来ぬから論外である。文章を綴り句を成す力量があつても陶淵明や寒山拾得の様な人々は自分の作を天下後世に伝へたいと云ふ考がないから是も特別である。然し一般に文…

夏目漱石「『トリストラム、シヤンデー』」

「スターン」死して墓木(ぼぼく)已に拱(きょう)す百五十年の後日本人某なる者あり其著作を批評して物数奇(ものずき)にも之を読書社会に紹介したりと聞かば彼は泣べきか将(は)た笑ふ可きか

夏目漱石「『トリストラム、シヤンデー』」

僧侶として彼は其説教を公にせり、前後十六篇、今収めて其集中にあり、去れども是は単に其言行相(あい)背馳して有難からぬ人物なる事を後世に伝ふるの媒(なかだち)となるの外、出版の当時聊(いささ)か著者の懐中を暖めたるに過ぎねば、固(もと)より彼を伝ふ…