2012-10-01から1ヶ月間の記事一覧
自尊心はわれわれの生存の道具である。それは種の永続の道具に似ている。それは必要であり、われわれにとって貴重であり、われわれに楽しみを与えてくれる、しかしそれは秘めておかねばならないものである。
思索は言葉をとり集めて単純な語りにする。言葉は存在の言葉である、雲が空の雲であるように。思索はその語りでもって、言葉のうちに目立たぬ畝を切る。その畝間は、農夫がゆったりとした足どりで畑に切っていく畝間よりももっと目立たないものなのだが。
文字は汲汲として看るべし。悠悠たるは得(よ)からず。急ぎ看て、方(はじ)めて前面に看し底(もの)に接し得(う)。若し放慢なれば、則ち前面の意思(いみ)と相い接せず。某(それがし)の文字を看るや、看て六十一歳に到り、方めて略(ほ)ぼ道理を見得ること恁地(か…
美の真実な感銘が沈黙以外の結果を生むはずがないのは、よく御存知でしょうに……? やれやれ、なんてこった! たとえばです、日没という、あのうっとりするような日々の魔法を前にして、喝采しようという気をおこされたことが、あなたには一度だってあります…
苦しむことほど苦いものはない。しかし苦しんだことほど甘美なこともない。世間では、苦しむことほど身を醜くするものはないが、逆に神の前では、苦しんだことほど魂を飾るものはないのである。
言語、神話、芸術を「シンボル形式」と呼ぶとき、この表現にはある前提がふくまれているように思われる。それは、言語も神話も芸術もすべて精神の形態化の特定の様式であって、それらはすべて、遡れば現実というただ一つの究極の基層に関わっているのであり…
子供たちに、新鮮な空気が入り、明るく、陽当たりよく、広々とした教室と、涼しい寝室とを与え、また戸外でたっぷりと運動をさせよう。たとえ寒くて風の強い日でも、暖かく着込ませて充分に運動させ、あくまで自由に、子供自身の考えに任せて、指図はせずに…
私は常に物ごとをふたつのレベルで、同時に考えることが大事だと思っている。すなわち、一方では与えられたシステムの中での可能性を探求する改革者的な関心の持ち方、そして他方では基本的な変化についての長い時間幅のユートピア的な関心というふたつがそ…
群衆はとつじょとして姿を現わし、社会における最良の場所を占めたのである。以前には、群衆は存在していたとしても、人目にはふれなかった。群衆は社会という舞台の背景にいたのである。ところが今や舞台の前面に進み出て、主要人物となった。もはや主役は…
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。 心に刻み(エアインネルン)つづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼…
幸福になる前に笑っておかなければならぬ。笑わぬうちに死んでしまうようなことにならぬとも限らないから。(第四章 心情について) * 人間にとっては唯三つの事件しかない。生れること、生きること、死ぬこと。生れる時は感じない。死ぬ時は苦しい。しかも…
経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはないのである。どのような知的影響とも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過…
不意に眼の前に差し迫った死の威嚇が現われてきた人びとには、崖から下へ滑る登山家や水に溺れる人や首を吊った人には、注意の急激な転換が生ずることがあるようです。――それまで未来に向けられて行動の必要に奪われていた意識の方向が変わったために、突然…
色は、私を捉えた。自分のほうから色を探し求めるまでもない。私には、よくわかる。色は、私を永遠に捉えたのだ。私と色とは一体だ――これこそ幸福なひとときでなくて何であろうか。私は、絵描きなのだ。(一九一四年四月一六日)
いかなる生物生類(いきものしょうるい)であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むもので…
冷え切った、ほとんど暖房のきいていない汽車の客室で、私はB型の模様について覚えていることを新聞のすみの余白に書きとめた。それからケンブリッジへ向かってガタガタと走る汽車の振動に身をまかせながら、二本鎖と三本鎖のどちらが正しいか考えてみた。………
死は(厳密に考えて)われわれの一生の真の最終目標なのですから、私は数年この方、人間のこの真の最善の友ととても親しくなって、その姿が私にとってもう何の恐ろしいものでもなくなり、むしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています! そして、神さま…
しかしもう去るべき時が来た――私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちのいずれがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より外に誰も知る者がない。
いかなる保守主義的イデオロギーをも持たぬ保守的な国家であるアメリカは、今や、むき出しの、恣意的な権力として、全世界の前に立ち現われている。その政策決定者たちは、現実主義の名において、世界の現実について気狂いじみた定義を下し、それを押しつけ…
愚かさは悪よりもはるかに危険な善の敵である。悪に対しては抗議することができる。それを暴露し、万一の場合には、これを力ずくで妨害することもできる。悪は、少なくとも人間の中に不快さを残していくことによって、いつも自己解体の萌芽をひそませている…
十九世紀においては神が死んだことが問題だったが、二十世紀では人間が死んだことが問題なのだ。十九世紀において、非人間性とは残忍という意味だったが、二十世紀では、非人間性は精神分裂病的な自己疎外を意味する。人間が奴隷になることが、過去の危険だ…
人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習癖がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることが出来るのである。実際いかなる所といえども…
メロディーは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうにちがいない。このことは、わたしが〈なんじ〉と…
サパング(日本国)は東方の島で、大洋の中にある。大陸から一五〇〇マイル離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、こ…
状況の中に捲き込まれて私自身に目醒めつつ、私は存在への問いを発する。状況の中にある私自身を漠とした可能性として見いだしつつ、私は、私自身を本来的に発見するため、存在を探求しなければならない。しかも存在そのものを見いだそうとするこの試みの挫…
理性の危機は個人の危機のなかで表明される。個人の能力として理性は発展してきたのだからである。伝統的哲学が個人と理性について抱いていた幻想――その永遠性についての幻想は消え失せつつある。個人は、かつては、理性をもっぱら自己の道具として考えてい…
我々は幼年のとき、自分の理性を全面的に使用することなく、むしろまず感覚的な事物について、さまざまな判断をしていたので、多くの先入見によって真の認識から妨げられている。これらの先入見から解放されるには、そのうちにほんの僅かでも不確かさの疑い…
バラ色、ライラック、黄色、白、青、浅緑の、真紅の家々や教会――それぞれが自分たちの歌を――風にざわめく緑の芝生、低いバスでつぶやく樹々、あるいは千々(ちぢ)の声で歌う白雪、葉の落ちた樹々の枝のアレグレット、それに無骨で無口なクレムリンの赤い壁の…
人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(にわか)に孺子(じゅし)の将に井(いど)に入(お)ちんとするを見れば、皆怵テキ惻隠(じゅってきそくいん:「テキ」は“りっしんべん+易”)の心有り、交(まじわり)を孺子の父母に内(むす)ばんとする所以にも…
社会主義が正統派社会主義者達の夢見ている文明の出現を意味すると信ずべき理由は殆んどない。ファシストの特徴が現われる可能性の方がむしろ大きい。それはマルクスの念仏を唱える人々にとっては予想外の解答であるに相違ない。けれども歴史は時々たちの悪…