2013-06-01から1ヶ月間の記事一覧
ひとは必ずしも、ベル・エポック(良き時代)にのみ郷愁をおぼえるのではないらしく、悪しき時代、暗い時代にも等しく郷愁をおぼえるものらしい。
我々を形成し、我々をして我々たらしめたものが過去であることを知る者は、過去を軽蔑しない。
金のブルジョアがあるならば、時間のブルジョアという名もあっていい。
人間には、生きようという意志と一緒に、滅亡に赴こうという意志があるような気がするんですよ。
独座観念 *茶の会席で、客の退室したあとの亭主の心得。炉前に独座して、今日の一期一会に思いを至すべきことを述べ、「此時寂莫として、打語ふものとては、釜一口のみにして外に物なし、誠に自得せざればいたりがたき境介なり」と結んでいる。
本当の芸っていうものはな、――ときには師匠の芸を殺しさえするもんだぜ。
芸というものはそこへ到達したことで終るのではなく、むしろ到達したところから成長してゆくものだ。
名人の芸を見て、及ばざる事は合点ゆかぬ所と知るべし。 *名人の芸を見て納得ゆかない点があれば、そこが自分の名人に及ばない所と考えるべきだと説く。
妄念を嫌ふべからず。妄念即(そく)菩提なり。智見を欣ぶべからず。智見即無明(むみょう)なり。 *「妄念」は、迷いの心。「菩提」は、さとり。「智見」は、正しい認識。「無明」は、無知。「妄念」と「さとり」、「智見」と「無知」は、相即不離である、とい…
出家遁世ぐらい、家の中にいても出来ますから、試しにやってごらんなさい。
神は人間の最後の言いのがれであり、逆説とは、もしかすると神への捷径だ。
神は演出し、人間はその演出にしたがって踊る。 *キリスト教について述べた言葉。これに続けて、「が、その神という観念を創造したのは人間です。とすれば、人間が人間を演出し、踊らすために、神の観念を必要としたのにほかならない」と述べている。
熊野へ参らむと思へども、徒歩(かち)より参れば道遠し、すぐれて山峻(きび)し、馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ、羽賜(はねた)べ若王子(にゃくおうじ) *「若王子」は、熊野神社の摂社の諸王子中の第一位。
霊寺(じ)の殊に聞ゆるは、泊瀬山(はつせやま)石山比叡山(ひえのやま)書写の山、弘法大師の入定は、紀伊の国高野の山の奥 *霊験あらたかな名寺の列挙。「泊瀬山」は、長谷寺のこと。
神社の勝(すぐ)れて貴きは男山(やま)賀茂山(やま)稲荷や春日熊野山(やま) *「男山」は石清水八幡宮、「稲荷」は伏見稲荷のこと。
癖のある悪文という奴は、変に魅力があるんだね。それで若い者がそれに眩惑される。
逆説はその場のがれにこそなれ、本当の言いのがれにはなりえない。
一つの正しい言葉が書かれるためにはこれの十倍の生活がなくてはと僕は思っている。
なげの言葉なれど、せちに心に深く入らねど、いとほしきことをば「いとほし」とも、あはれなるをば「げにいかに思ふらん」など言ひけるを伝へて聞きたるは、さし向ひて言ふよりもうれし。 *たいした言葉ではないが、また真実心にしみることがなくても、気の…
物をよく知れば憍慢起ると云ふ事、心得ず。物をよく知れば、憍慢こそ起らね、憍慢の起らんはよく知らぬにこそ。 *憍慢の心(高慢な心)が起こるのは、物をよく知ったからではなく、まだよく物を知っていないからである、の意。
人生では知らないことだけが役に立つので、知ってしまったことは役にも立たない。
俳諧に門戸なし、只是俳諧門といふを以て門とす。 *「いにしへより俳諧の数家各々門戸を分ち、風調を異にす。いずれの門よりして歟(か)其堂奥をうかがはんや」と問われて答えたもの。
俗言を嫌はず作する句を俳諧といふなり。
俳句をものせんと思はば思ふままをものすべし。巧を求むる莫れ、拙を蔽ふ莫れ、他人に恥かしがる莫れ。
或る小説がそこに存在するおかげで、どれだけ多くの人々が告白を免かれていることであろうか。
ばかを一ぺん通って来た利口と始めからの利口とはやはり別物かもしれない。 *「ばかも一度はしてみるものだ」ということを言ったもの。
浮き世の苦労をいろいろ嘗めてきたので、死が救いにおもえるときもある。浮き世の苦労というものは、死のおそれをなくするために存在している貴重なものにおもえたりする。
苦労と云うものも或る程度まで馴らされてしまえば却って呑気になることがある。
金のあるものは金がある為に不正なことをし、金のないものは金がない為に不正なことをする。
昔は親孝行をしたい時には親は無しといったが、今じゃ親孝行したい時には金は無しだ。