2014-10-01から1ヶ月間の記事一覧

芥川龍之介「地獄変」

火は見る見る中(うち)に、車蓋(やかた)をつつみました。庇についた紫の流蘇(ふさ)が、煽られたやうにさつと靡くと、その下から濛々(もうもう)と夜目にも白い煙が渦を巻いて、或は簾、或は袖、或は棟(むね)の金物(かなもの)が、一時に砕けて飛んだかと思ふ程…

中勘助『銀の匙』

そのあとから私は日陰者みたいにこっそり部屋へ帰って柱によりかかったまま弱りかえっていた。初対面の挨拶をするのがなにより難儀だ。そうしてなじみのない人のまえにかしこまってるつらさといえばなにか目にみえない縄で縛りつけられてるようで、しまいに…

国木田独歩「春の鳥」

さて私もこの憐れな児の為めには随分骨を折ってみましたが眼に見えるほどの効能は少しも有りませんでした。 かれこれするうちに翌年の春になり、六蔵の身の上に災難が起りました。三月の末で御座いました、或日朝から六蔵の姿が見えません、昼過(ひるすぎ)に…

森鷗外『澀江抽齋』

抽齋の王室に於ける、常に耿々(かうかう)の心を懐いてゐた。そして曾て一たびこれがために身命を危くしたことがある。保さんはこれを母五百(いほ)に聞いたが、憾(うら)むらくは其月日を詳(つまびらか)にしない。しかし本所(ほんじよ)に於ての出来事で、多分…

樋口一葉「たけくらべ」

龍華寺(りうげじ)の信如、大黒屋の美登利、二人ながら学校は育英舎なり、去りし四月の末つかた、桜は散りて青葉のかげに藤の花見といふ頃、春季の大運動会とて水(みづ)の谷(や)の原にせし事ありしが、つな引、鞠なげ、縄とびの遊びに興をそへて長き日の暮る…

島崎藤村「おくめ」『若菜集』より

こひしきままに家を出(い)で ここの岸よりかの岸へ 越えましものと来て見れば 千鳥鳴くなり夕まぐれ こひには親も捨てはてて やむよしもなき胸の火や 鬢(びん)の毛を吹く河風よ せめてあはれと思へかし 河波暗く瀬を早み 流れて巌(いは)に砕くるも 君を思へ…

ヴェルレーヌ(上田敏訳)「落葉」『海潮音』より

秋の日の ヸオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し。 鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや。 げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落葉(おちば)かな。

カアル・ブッセ(上田敏訳)「山のあなた」『海潮音』より

山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ。 噫、われひとと尋(と)めゆきて、 涙さしぐみかへりきぬ。 山のあなたになほ遠く 「幸」住むと人のいふ。

関川夏央「スキーヤーの後姿」

彼女はスキーを始めたのである。下の子をスキー場に連れて行ったついでに、二十五年ぶりに自分もやってみた。 転びもするが、結構すべれる。スキー教室のグループの脇にたたずんで先生の話を盗み聞いた。いうとおりに試してみたら、スキー板をそろえたままで…

須賀敦子「舗石を敷いた道」

ローマでも、ナポリでも、舗石を敷いた道があるのは旧都心で、それもほんの一部にしか残っていない。なつかしい、と書きはしても、じっさいは、とくに女の靴にとっては、かなり歩きにくいものでもある。私のイタリア暮らしの発端となった五〇年代の終りごろ…

向田邦子「糸の目」

「女の目には鈴を張れ 男の目には糸を引け」 という諺があるという。 舞妓さんのはなしは別として、女は、喜怒哀楽を目に出したところで大勢に影響はない。 だが、男はそうではいけないのだという。 何を考えているのか、全くわからないポーカーフェイスが成…

向田邦子「ねずみ花火」

父の仕事の関係で転勤や引越しが多く、ひとつところに定着しなかったせいか、お彼岸やお盆の行事にはとんと無縁であった。 なすびの馬も送り火も精霊流しも、俳句の季題として文字の上の知識に過ぎず、自分の身近で手をそえてしたことは一度もない。 ただ何…

里見トン「椿」

暫くそうしていたが、息苦しくって耐(たま)らなくなって来て、姪が、そうっと顔を出して見ると、いつの間にか叔母は、普段のとおり肩をしっかり包んで、こちら向きに、静(しずか)に臥(ね)ていた。(まアいやな姉さん!)と思いながら、左下に臥返った。と、…

吉田健一「英国の落ち着きということ」

英国に行っても、椅子も卓子もあり、形は少し違っているがバスも汽車も走っていて、わざわざそんなものを見に英国まで行かなくてもよさそうなものであるが、大して日本と変らないようでいてやはり違っていることの中に、一種の日本では求め難い落ち着きがあ…

三好達治「鮎鷹」

もうそこここには早咲きのダリアの花がまっ赤に咲いている。去年その花のふんだんに咲いていた垣根のあたりを通りすがりに、ふとそう思って眼をとめると、今年もまたそこにその花が一輪二輪はや咲きはじめていて、その庭は丁度去年と同じようなあんばい風(ふ…

薄田泣菫「蔬菜の味」

肥(ふと)り肉(じし)の女が、よく汗ばんだ襟首を押しはだける癖があるやうに、大根は身体中の肉がはちきれるほど肥えてくると、息苦しさうに土のなかに爪立ちをして、むつちりした肩のあたりを一、二寸ばかり畦土(あぜつち)の上へもち上げてくる。そして初冬…

夏目漱石『草枕』

山路を登りながら、かう考へた。 智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟つた時、詩が生れて、画(え)が出来る。 人の世…