2011-03-01から1ヶ月間の記事一覧

蓮實重彦+武満徹『シネマの快楽』

蓮實 ぼくの考えだと、視線の演出をしていると、どうしても扉から入ってくるというところがキイになっちゃうと思うんですよ。ふっと振り返るとか、知らない間にそこに入ってくるとか。ところが、今みたいに、テレビ中心的で、視線の演出をしないと、扉の魅力…

蓮實重彦+武満徹『シネマの快楽』

蓮實 白黒映画というのは、その初期から全盛期にかけて、人間の顔をいかに撮りスクリーンに再現するかということに関して、繊細きわまりない確乎たる方法を獲得しえたと思うんです。ところが色彩映画は、顔に関して不毛な試みしか示しえなかった。ゴダールの…

蓮實重彦+武満徹『シネマの快楽』

蓮實 ゴダールの圧倒的な面白さは、いつでも共通語に対する地方語、標準語に対する方言として映画を撮っているという姿勢にあると思うんです。それじゃどこの方言かというと、これが必ずしも明確じゃない。〈ゴダール〉という特定の地方をあらかじめ想定して…

蓮實重彦+武満徹『シネマの快楽』

武満 それは必ずしも観衆だけではなくて、素晴らしい監督というのはつねに視る監督ですね。いつもぼくは言葉が整理されないままに言ってしまうんだけれど、撮る監督はいるけれど、視る監督はほんとに少ないと思うんですね。だから、撮る監督でもぼくらはそれ…

蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』

鏡を前にした場合のキャメラが、その撮影角度の限定として耐えねばならぬ制度性は、とうぜんのことながら、見つめあう二つの瞳を同時に画面にはとらええないといういま一つの限界となって露呈されることにもなるだろう。キャメラとは、凝視しあう視線に対し…

蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』

つまり映画には、キャメラが自分自身をとらええないという限界が存在しているのであり、その点においても、映画の制度性は露呈することになるだろう。

蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』

アンゲロプロスの最大の不幸は、ゴダールのように、彼があまりにも才能に恵まれすぎているという点に存しているのだ。

蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』

つまり複数性とは、模倣可能な対象ではなく、こちらが黙っていてもむこうから間近に迫り、じかに素肌にまといついて、理不尽な反復をしいる環境なのである。誰もが見たことも聞いたこともないものを思わず知らず擬態によって実践してしまうとき、複数性の環…

蓮實重彦『映画 誘惑のエクリチュール』

映画は、視線そのものを決して撮ることができない。フィルムがその表層に定着しうるのは、たかだか何ものかを見ているらしい瞳でしかなく、それじたいが比喩的な表象にすぎない視線の一語があてられている瞳孔とその視覚的対象物とを結ぶ線など、画面のどこ…

立花隆『宇宙からの帰還』

「これは特筆すべきことだと思うんだが、宇宙体験の結果、無神論者になったという人間は一人もいないんだよ」

立花隆『宇宙からの帰還』

「科学はいつも『なぜ』という問いかけを、『いかにして』に置きかえて、説明をひねりだしてきた。根源的な『なぜ』、存在論的な『なぜ』に、科学は答えることができない。科学はさまざまの法則を発見したと称する。しかし、なぜその法則が成立するのかにつ…

立花隆『宇宙からの帰還』

「地球にいる人間は、結局、地球の表面にへばりついているだけで、平面的にしかものが見えていない。平面的に見ているかぎり、平面的な相違点がやたらに目につく」

森まゆみ『鷗外の坂』

孤独の快楽を、鷗外は誰にも邪魔させなかった。彼は六十年の生涯のうち、五十数年は本を読みつづけた人である。

森まゆみ『鷗外の坂』

墓は死んだ人間と生きている人間を結ぶよすがである。何ら書き残さず書き残されなかった人間についてたどる唯一の手がかりである。ここに鷗外の抑えられた怒りと、深い詠嘆がある。

森まゆみ『鷗外の坂』

こういうとき「ただ微笑する」のが鷗外流だった。

林達夫「書籍の周囲」

もとより翻訳において無謬であることが人間に殆ど禁じられていることは、私とてよく知っている。翻訳に対する眼が寛容の眼でなくてならぬことは、私の進んで言いたいことである。しかし誤謬にも程度と種類とがないであろうか。 ※太字は出典では傍点

林達夫「ジャーナリズム」

先ず私のはじめに力説しておきたいことは、近代ジャーナリズムは最初から資本主義の企業的精神と深く結びついて登場して来ているという事実である。

林達夫「現代社会の表情」

そこで思うのだが、一体、人間の表情などというものは、人の本心を露出するものなのか、あるいは隠蔽するものなのか、また露出するにしてもそのまま露出するものなのか、屈折し変色して露出するものなのか、隠蔽するにしてもいわば隠しつつそのものを仄めか…

林達夫「思想の運命」

思想の生命には、そのどこかに寄生虫めいたところがある。それは何かのものに、時には敵対的な思想そのものにさえ食い入って行って、それを養分としながら自分を存続させ自分をふとらせているのである。

三木成夫『胎児の世界』

わたしたちの祖先は、遠い古代のむかしから「コ・コ・ロ」の音声を日常のことばとして蜿蜒とつかいつづけてきたのであろう。それが、漢字の渡来とともに、心臓を象る「心」の文字に当てられる。この音形象から視形象への翻訳は、かれらが「ココロ」と「心臓…

三木成夫『胎児の世界』

塩。これこそ〝海の精〟であり、わたしたち地球に棲む生物のいのちの最後の綱を象るものではないか。いつの日にか、宇宙生物たちが一堂に会するとして地球生物の旗印を求めるとなれば、もはやこれ以外にはありえないといえるほどのものではないか。地球を代…

三木成夫『胎児の世界』

マ行の音「マ・ミ・ム・メ・モ」は、一般に「唇音 labial」とよばれる。唇なしには出てこないからだ。したがってこれは、哺乳動物の象徴音ということにもなる。ネコの「ミャー」、ヒツジの「メエー」、ウシの「モォー」とともに、人間の赤ん坊の原始の音声が…

中井久夫『治療文化論』

何年も前のことだが「われわれは辻つまあわせをしているにすぎないのだろうか」と深く考え込んでしまった。

中井久夫『治療文化論』

人間の精神衛生維持行動は、意外に平凡かつ単純であって、男女によって順位こそ異なるが、雑談、買物、酒、タバコが四大ストレス解消法である。しかし、それでよい。何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決…

中井久夫『治療文化論』

そして、歴史に興味を持つ人すなわち過去に興味を持つ人は、木村敏のいうpost festum的な人、いわば(微分でなく)積分回路的な人、日本の精神医学で(ドイツ精神医学以外では承認を得ていないけれども)「執着性気質」といわれる、几帳面で、飛躍をみずからにゆ…

中井久夫『治療文化論』

おそらく「世直し」のミキと「立て直し」の中村直三との違いは、山と平野との境界側と平野部の東端とのコスモロジカルな差に対応するのではないか。洋の東西を問わず「立て直し」的治療者は境界の山側に出現するのである。

カミュ「不条理な創造」(清水徹 訳)

だれもが、自分自身の現実を模倣し、反復し、再創造しようと試みる。そして、ぼくらはつねに、結局は、ぼくらにとってのさまざまな真理を、自分の顔とするにいたる。芸術創造とは偉大な物真似なのだ。

カミュ「不条理な創造」(清水徹 訳)

創造するとは二度生きることだ。

カミュ「不条理な人間」(清水徹 訳)

ひとは、口に出して語ることによってよりも、口に出さずにおくことによって、いっそうそのひと自体である。

カミュ「不条理な論証」(清水徹 訳)

まったく教訓的だと思えるひとつの明々白々たる事実がある。人間はつねに自分が真実と認めたもののとりことなってしまうということだ。なにかをひとたび真実と認めてしまうと、人間はなかなかそれから自由になれない。