2012-03-01から1ヶ月間の記事一覧

寺山修司『青少年のための自殺学入門』

わたしはじぶんの自殺についてかんがえるとき、じぶんをたにんから切りはなすことのむずかしさをかんじる。じぶん、というどくりつした存在がどこにもなくて、じぶんはたにんのぶぶんにすぎなくなってしまっているのです。じぶんを殺すことは、おおかれすく…

寺山修司『青少年のための自殺学入門』

自殺が美しいとすれば、それは虚構であり、偶然的だからである。ぎりぎり追いつめられた中小企業の経営者の倒産による自殺は、自殺のように見えるが実は〝他殺〟である。膨張しすぎた資本主義社会の歪みから出てくる自殺は、自殺いかんを問わず他殺である

寺山修司『アメリカ地獄めぐり』

余剰な青年たちを持つと国家権力は戦争というマスプロ的な「間引き」を行なって数をととのえた。いつでも、余剰は悪であり、端数は切り捨てられた。戦事も、間引きも、言わば集団管理のための一つの方法にすぎない、と考えられるとすれば、一番問題にされて…

寺山修司『地平線のパロール』

本来ならば、家語、村語、町語といったものと、世界語といったもののあいだにあって、国語も言語の一形態であることにとどまるべきであったが、いつのまにかあらゆる表現が国家を配給元として用いられるようになってしまった。そのために「二人語」とか「共…

寺山修司『地平線のパロール』

まだだれ一人として、地平線まで行った者はいなかったと言うのと、世界中のだれもが地平線の上に立っていると言うのと、どっちがほんとうらしくきこえるだろう?

寺山修司『地平線のパロール』

――集団は何でも政治化してしまうからな。

寺山修司『黄金時代』

俳句は、おそらく、世界でもっともすぐれた詩型であることが、この頃、あらためて痛感されるのである。

寺山修司『あゝ、荒野』

「自分は一人で死ぬのなんか嫌なんです。死ぬなら、誰かのせいで死にたい。すくなくとも、誰かに責任をのこして、そいつとの結びつきのなかで死にたい。 それが、私の考える理想的な死に方なんです」 ※斜体は出典では傍点

寺山修司『あゝ、荒野』

レコード店の中には、様々な人生案内が氾濫していた。 「どうせあたしをだますなら、死ぬまでだましてほしかった」と西田佐知子がつめよると、べつのスピーカーから植木等が、「一言文句を言うまえに、あんたの息子を信じなさい」と言いのがれていたし、吉永…

寺山修司『あゝ、荒野』

彼等は「世をしのぶ仮のすがた」のままで日々を送りながら、何時のまにかそれが「本ものの自分のすがた」になってしまっていることには気づかないのである。

寺山修司『あゝ、荒野』

――危機という名の鳥は、政治的、経済的状態のうちにではなく、人間の魂のうちにのみ見出される。

寺山修司『あゝ、荒野』

――あなたは病気にかかっていませんか? 人類が最後にかかる、一番重い病気は「希望」という病気です。

寺山修司『あゝ、荒野』

「あんたは自分を大げさに考えすぎるわ」

寺山修司『あゝ、荒野』

(歌うのは、傷を癒すためだと思っていたが、歌うことで傷つく奴もいるんだな)

寺山修司『あゝ、荒野』

「いまどき、自分の生活様式が他人の盗作でない奴があるだろうか。 オーダーメイドの洋服が商品として通用する時代だもの。オーダーメイドの思想が通用していけない訳はない」

寺山修司『あゝ、荒野』

(あれだけしゃべれるように、とは何であろうか? あれは何かを話しているのだろうか? 怖さをかくすために、ただ手当り次第に言葉を吐き出しているのに過ぎないのではないだろうか?) ※斜体は出典では傍点

寺山修司『あゝ、荒野』

「すべてのインテリは、東芝扇風機のプロペラのようだ。まわっているけど、前進しない」

寺山修司『あゝ、荒野』

「近頃の標準語なんてだめね。あんなもんは、政治しか語れん言葉だ。わしが方言を使うのは、今じゃ『人生を語る』言葉が方言だけしか残っちょらんからなんですよ。いいかね。人生を語る言葉は、方言しか残っとらんのですよ」

寺山修司『月蝕機関説』

だが、現代人は「生者だけが死を所有できる」ということを知っている。死者が生者にまといつきつつ憑依的に現出するということなどはない。死を媒介にして、生者が生者にまといつくのである。 死は生者の相互主観の産物である。

寺山修司『幻想図書館』

人は誰でも、他人を襲うとき(それが戦場であれ、情事の戯れのときであれ)じぶんの顔を鏡にうつして見ておどろくだろう。 気がつかなかったが、自分もまた一匹の狼だったのである。

寺山修司『幻想図書館』

文字(意味)を消すことによって、自らをすり減らし、やがて自身も消えていってしまう消しゴムには、ひとごとならぬ親しみを覚えたのだ。私は、世界各地の消しゴムを蒐集したが、それらは「蒐集箱」に入っている限りは、ただのゴムであって「消しゴム」では…

寺山修司『幻想図書館』

むしろ、畸型を差別し、(しかもひそかに製造しつづける操作の中に)権力者の原政治的な悪への欲望がひそんでいると思うのだが、どんなものだろうか?

寺山修司『幻想図書館』

「どんな形態の人間だって、存在し得る」のであり、標準的な人間というのは、幻想にすぎないのだ。 「勝手に標準人間のイメージをデッチあげておいて、そのカテゴリーに入らないからといって、〈不具〉よばわりすることこそ差別ではないか」 と花園神社の見…

寺山修司『新・書を捨てよ、町へ出よう』

私たちは、日頃何とスラスラと話していることだろうか? そして、じぶんの話すことばに何の疑いを持たずに生活していることだろうか? どもりは、吃ることで自分の言葉をもう一度、心で嚙みしめることができるが、私たちはじぶんのことばをいつも早産する。…

寺山修司『新・書を捨てよ、町へ出よう』

ぼくは戦争にはプロフェッショナルはあっても、反戦にはプロフェッショナルはない、と思っているのである。

寺山修司『新・書を捨てよ、町へ出よう』

平和でありながら戦争である状態、戦争でありながら平和である状態、この複雑さのなかにぼくたちは生きている。

寺山修司『新・書を捨てよ、町へ出よう』

もはや、戦争と平和の問題を国家を単位として考えるだけでは無効なのではないだろうか?

寺山修司『新・書を捨てよ、町へ出よう』

スターというのはファンの代理人である。ファンの「かわりに愛し」「かわりに唄い」そして「かわりに泣く」のである。 すべてのスターは、代理の情念であり代理の肉体であり、それ自体で生きるのではなくて、病んだファンの幻想のなかで生きているのだ。

寺山修司『新・書を捨てよ、町へ出よう』

人間は、敵なしでは生きられない動物である。

寺山修司『対論 四角いジャングル』

寺山 量というものはものすごく恐ろしいもんで、これはある意味では体制の権力なるものよりも、もっと恐ろしい。