2013-09-01から1ヶ月間の記事一覧
この絵は、まさに我こそ全作品中の女王であると言っているようだった。 そこに描かれている女性は、等身大よりもかなり大きめに見えた。私の目算によれば、質量が評価基準となる商品にふさわしい計量単位に換算して、まず確実に体重が九十から百キロはあろう…
玄関の石段の上で彼は鍵を取り出そうとして尻ポケットを手探りした。ない。脱いだズボンに入れっぱなしだ。取ってこなければ。ジャガイモならあるんだが。あの衣装箪笥はギシギシいうからな。あいつを起こしたってしょうがない。さっきずいぶんと眠そうに寝…
ダロウェイ夫人は自分で花を買いにいくと言った。ルーシーは他の仕事で手一杯だから。ドアは蝶番(ちょうつがい)を外すことになるだろう。ランぺルメイヤーの人が来てくれることになっている。それに、とクラリッサ・ダロウェイは考えた。なんという朝でしょ…
「そのことなら」と彼は言った。「喜んでお答えしましょう。私の名はクィンです」 「ほう」とスティルマンはうなずきながら、考え深げに言った。「クィン、ですか」 「ええ、クィン。Q-U-I-N-N」 「なるほど。ふむふむ、なるほど。クィン。ううむ。ふむ。実…
さて、ヴィック・ウィルコックスをひとまずそこに残し、時間を一、二時間、空間を数マイル戻って、まったく違うキャラクターに出会うことにしよう。私にとってはいささか気まずいことに、この人物、キャラクターという概念を信じないキャラクターである。す…
……そしてまだ紹介していない、いままで測廊を覆う影に隠れていたもう一人の女の子がその影のなかから出てきて、聖体拝領台のところにいる連中の仲間に加わる。彼女をヴァイオレットと呼ぼう、いやヴェロニカにしよう、いやヴァイオレットだ、アイルランドの…
「ヴィッカリーはあの晩、戦争後ブルームフォンテイン砦にそのままになっている海軍の弾薬なんかを引き取りに、内地の方に行くところだったのさ。分遣隊がヴィッカリーの旦那のお供を命ぜられることもなかった。あいつは一人称単数で――単騎で、つまり独りで―…
令夫人の無沙汰は、まったく別の派手な行動によって補われないわけではなかった――彼女は威風堂々と部屋に入ってきてはそこでぴたりと静止し、天井の具合から娘の靴の先まで、まさにありとあらゆるものを管理するかのように、さまざまな思惑を込めた視察を行…
僕にとって耐えがたいのは、一瞬のあいだ彼女が僕の主張を認識したこと、僕の権利を承認したことだ。僕に拳骨でテーブルを叩きたくさせるのは…… 電話だ。ベルが鳴っている。ちょっと失敬。 何でもない。神経衰弱の学生からだ。そう、僕を月に吠えたくさせる…
サリーの奴、ラント夫妻のことをほめまくる以外はあまり喋らなかった。とにかくきょろきょろあたりを見まわすのと、自分のチャーミングな姿を見せびらかすのとで忙しかったから。と、突然、ロビーの反対側に誰か知りあいの阿呆がいるのが見つかった。よくあ…
はじめのうち、未だ経験したことのない死は、まさに経験したことがないがゆえにあり得ないもののように思え、ナイトは未来のことも、あるいは自分の過去と結びついたいかなるものも考えることができなかった。彼はただ、自分を亡きものにし、彼女の試みを失…
マーガレットにとって――どうか彼女に対して嫌悪の念を抱かないでいただきたい――キングズ・クロスの駅はいつも「無限」を意味するものであった。見かけの壮麗さを誇るセント・パンクラス駅に対して少し引っ込んだところにあるその位置関係が、まさに物質主義…
墨滴に映る図像で占うエジプトの妖術師は、相手の如何を問わず、はるか昔の幻想を語ることに吝かではなかった。読者諸君の前で、筆者は今その妖術師になろうと思う。このペン先から滴り落ちるインクの跡で、ヘイスロープという村で家具屋と大工を営むジョナ…
これは私が耳にした最も悲しい物語である。私たちがナウハイムという町でアッシュバーナム夫妻と親密な付き合い――というよりはむしろ、「ゆったり」と「しっくり」を兼ね備えた、上等な手袋と手のような付き合い――を始めてから、季節が九回移り変わるだけの…
エマ・ウッドハウスは端正な顔立ちをした利口な女性であり、何不自由なく暮らしていけるだけの富を有し、加えるに温かい家庭と明るい気質を併せ持ち、まさに天の恵みを一身に集めているようであった。この世に生を受けて二十一年近くの間、悩みや失望とはほ…
九 Aの一種の淋しい変な感じは日と共に跡方(あとかた)なく消えて了った。然し、彼は神田のその店の前を通る事は妙に気がさして出来なくなった。のみならず、その鮨屋にも自分から出掛ける気はしなくなった。 「丁度よう御座んすわ。自家(うち)へ取り寄せれば…
かような離れ島の中の、たった二人切りの幸福(しあわせ)の中に、恐ろしい悪魔が忍び込んで来ようと、どうして思われましょう。 けれども、それは、ホントウに忍び込んで来たに違いないのでした。 それはいつからとも、わかりませんが、月日の経つのにつれて…
明後日までには全部殺してしまうんだろう? それに餌をやって手なずけるなんて卑劣で恥しらずだ。僕はすぐに殴り殺される犬が、尾を振りながら残飯を食べることを考えるとやりきれないんだ。[と私大生がいった=出典注] 今日はせいぜい五十匹しか殺さないん…
私はスラム街にある事前事業団の建物の中にはいって行った。その建物の屋上で不良少年達が集団生活をしていると言う聞き込みをしたので、私もその仲間に入団しようと考えたからだ。それは何も、私より一廻りも年若い新時代の連中と同じ気分になって生活が出…
天保二年九月のある午前である。神田同朋町(どうぼうちょう)の銭湯松の湯では、朝から不相変(あいかわらず)客が多かった。式亭三馬が何年か前に出版した滑稽本の中で「神祇(しんぎ)、釈教(しゃっきょう)、恋、無常、みないりごみの浮世風呂」と云った光景は…
受話器を置くと、ぼくはそのまま、電話ボックスの中に、しゃがみ込んでしまう。隅にまるめた新聞紙があり、下から黒く乾いた大便の端がのぞいている。その大便の端には、くびれめがある。ロープでくくったような、くびれめがついている。くびれた所に、なに…
あの世、というと、どうもなんだかニュアンスがちがう。天国、彼岸、ますますぴったりこない。いっさいのものの向こう側だの、天の彼方だの、そんな感じではなくて、あるとすれば、それは、我々の居る空間とはまったくダブっており、我々はただきわどくすれ…
例えば歌舞伎座の話が出たとすれば菊千代は、沢瀉屋(おもだかや)が『勧進帳』をやってる最中に正面桟敷で変な事をしたお客がいたので狂言は一幕めちゃめちゃになってしまったんですってね。しかし昔から芝居にはよくそういう事があるんだって。そうすると縁…
翌日、次第にうねりが大きくなってきた。日本の方角は雲がたむろし、島があるようでないようで判然としない。前甲板(かんぱん)は完全に波に洗われている。船首に波がぶつかってくだけちると、それが無数のしぶきとなって船上を横ぎる。波は遠くの方は泥か粘…
外には大粒の雨が降っていて、辺りは薄暗かったけれど、風がちっともないので、ぼやぼやと温かった。 まだそれ程の時刻でもないと思うのに、段段空が暗くなって、方方の建物の窓から洩れる燈りが、きらきらし出した。 雨がひどく降っているのだけれど、何と…
「[……]実はな、今まで誰にもいわなかったがね、俺は女中の子なんだ」 「うるせえな。それがどうしたんだ。珍らしくもねえ」 「そうか知ら、でも俺はまだ誰も女中の子だって奴に会ったことがねえが」 「誰もお前みたいに自慢しやしねえさ、映画や小説にはあ…
「颯チャン、颯チャン、痛イヨウ!」 マルデ十三四ノ徒ッ子ノ声ニナッタ。ワザトデハナイ、ヒトリデニソンナ声ニナッタ。 「颯チャン、颯チャン、颯チャンタラヨウ!」 ソウ云ッテイルウチニ予ハワアワアト泣キ出シタ。眼カラハダラシナク涙ガ流レ出シ、鼻カ…
いつお帰りになって? ……昨夜? よかったわ、間にあって……ちょいと咲子さん、昨日、大阪から久能志貴子がやってきたの。しっかりしないと、たいへんよ……ええ、ほんとうの話。あなたを担いでみたって、しようがないじゃありませんか。終戦から六年、その前が…
奥様、仮りにあなたが、私の位置にあるものとして、その場の様子を想像してごらんなさいませ。それは、まあなんという、不思議千万な感覚でございましょう。私はもう、あまりの恐ろしさに、椅子の中の暗やみで、堅く堅く身を縮めて、わきの下からは、冷たい…