2014-04-01から1ヶ月間の記事一覧
半時間ぐらいでは何もできないと考えているより、世の中の一ばんつまらぬことでもする方がまさっている。
私はこう勧めたい。何も無理じいをせぬことだ。何もできない日や時には、後になって楽しめないようなものを作ろうとするより、ぶらぶらして過ごしたり、寝て過ごす方がいい、と。
どんな小さい毛髪でも影を投げる。
私たちは実験である、またそうであることを望もう!
子どもはどんな種類の活動にでも手を出したがる。それは、巧みになされたことは何でもやさしく見えるからである。なんでも初めはむずかしい。それはある意味ではほんとかも知れない。だが、もっと一般的にはこう言うことができる。――なんでも初めはやさしい…
そうじゃない! 人生は私を幻滅させはしなかった! 年を重ねるにつれて逆に私は人生を、いっそう豊かな、いっそう望ましい、いっそう神秘的なものと感じている。――それは偉大な解放者が、すなわち、人生は認識者の実験であってかまわないけれども――義務や宿…
からだに彩色したり入墨したりするのは、動物性へ還ることだ。
「最も単純な」物事でもきわめて複雑である。――これにはいくら驚いても驚きすぎることはない!
どんなつまらない雑草でも花でも、懐しい日記の一片となり得るのである。それは、幸福な瞬間の思い出を呼び返すものは、一つとして無意義ではあり得ないからである。それゆえ、いろいろな時代のかたみである様々のものを無価値なものとして棄ててしまうこと…
遅い青春は長持ちする青春である。若者たちのもとで青春を探す必要はない。
われわれを最も厳しくこきおろすのはだれか。 自分自身に見切りをつけたディレッタントだ。
なぜこうも悪口が絶えないのか。人々は、他人のちょっとした功績でも認めると、自分の品位を損ずるように思っている。
経験したことは理解した、と思いこんでいる人がたくさんいる。
若い人たちは、真偽のほどには無関心に面白いものや風変わりなものを愛する。もっと成熟した精神の持ち主たちは、真理においてその面白い風変わりな点を愛する。最後に、成熟しきった頭脳の持ち主たちは、真理を、それが単純素朴に見えて普通の人間を退屈さ…
凡庸さは、優越した精神がかぶることのできる最も好都合な仮面である。なぜなら凡庸さという仮面は、大衆すなわち凡庸な者たちに、仮面をかぶっていると思わせないからである――。
私たちのすることは、決して理解されることはなく、いつもただ称讃されるか非難されるだけである。
天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。
人は自分の肉体あるいは精神についてよく考えてみると、たいてい自分が病気であることを発見する。
人を知らねばこそ、人を恐れる。 人を避ける者はやがて人を見そこなう。
自分自身を見る位置はいつも二、三歩近すぎるものだ。隣人を見る位置はいつも二、三歩遠すぎるものだ。
私たちの性格は、体験したことによってよりも、ある種の体験をしていないことによって、いっそう規定されている。
他人が私たちのありのままの姿を知ってくれるよう願う代わりに、私たちは、他人が私たちのことをできるだけよく思ってくれるよう願う。だから私たちは、他人が私たちについて思い違いをすることを熱望していることになる。要するに私たちは、自分のユニーク…
良い面を残そうとすれば、どうしたって悪い面も同時に残さざるをえないのである。 だからこそ、盛者は必衰なのだろう。
虹だって十五分も続いたら、人はもう見むかない。
生活はすべて次の二つから成立っている。 したいけれど、できない。 できるけれど、したくない。
孤独は、私たちを自分に対していっそう厳しくさせるとともに、人間に対する私たちの憧憬をいっそう募らせる。両方の点で、孤独は私たちの性格を改善してくれる。
君たちのお粗末な自己愛が、孤独を君たちの牢獄にしてしまう。
私たちは自分の趣味に合うものをほめる。つまり私たちが何かをほめるとき、私たちは自分の趣味をほめているのだ。これは、すべてのよい趣味に反することではないだろうか?
誰でも、なるべくならば容易にものごとを処理したいと願うものである。 だが同じことでもたやすく実現できる人と、大変な苦労をした末にしか実現できない者に分かれるのも事実である。 その原因は、あらかじめできている準備を、訪れたその機に投入すべきか…
自分の生活を振り返って見ると、支離滅裂な生活としてしか目に映じない。ゆるがせにしたこと、失敗したことが、いつも先ず浮かんで来、空想力の中で成しとげたことや到達したことを圧倒するからである。