2013-08-01から1ヶ月間の記事一覧

橋本治『桃尻娘』

よりによってAだなんて、よく言うわよ。AだからBCDってなるんでしょう、あたしはイロハの方がいいわ、まだ意味があるもん、色は匂ってサ。ABCなんて無意味にかっこつけて、「だめよ」って言いながらチョッとずつ許してくのよネ、チョッとずつ確実に、高校生…

野坂昭如『エロ事師たち』

「いやすごいのんは小学校の死体安置場やて、菰かぶせられてな、身内にみせるために顔のところだけ出てんねん、空襲の後雨降るやろ、そやから体水気吸うて、黒焦げなりにふくれあがってもて化物や、ところどころ炭みたいな皮が割れて、中はちゃんと赤い肉見…

井伏鱒二『本日休診』

夕方、蒲田マーケットの前を通っていると、かねて目星をつけていた男女二人づれのものを見かけたので、そのあとからついて行った。男は身長が五尺四寸ぐらい、年は二十七八歳ぐらい、茶色のソフトをかぶっていた。そのソフトは、普通のつぶしかたにしてあっ…

泉鏡花『風流線』

村夫子は煙管を差置き、 「今さしあたり草木も動かず、五月晴の上天気、澄切って秋日和見たようじゃが、何とその底に黒い雲が徐々(そろそろ)と頭を出して、はやこの界隈、漁(すなど)るものも耕すものも、寐心(ねごころ)が穏(おだやか)でない。先々月あたりか…

梶井基次郎『冬の蠅』

冬が来て私は日光浴をやりはじめた。渓間(たにま)の温泉宿なので日が翳り易い。渓の風景は朝遅くまでは日影のなかに澄んでいる。やっと十時頃渓向うの山に堰きとめられていた日光が閃々と私の窓を射はじめる。窓を開けて仰ぐと、渓の空は虻や蜂の光点が忙が…

佐藤春夫『田園の憂鬱』

その丘はどこか女の脇腹の感じに似ていた。のんびりとした感情を持ってうねっている優雅な、思い思いの方向へ走っている無数の曲線が、せり上って、せり持ちになってでき上った一つの立体形であった。そうして、あの緑色の額縁のなかへきちんと収まって、た…

夏目漱石『それから』

「門野さん。僕はちょっと職業を探して来る」というや否や、鳥打帽を被って、傘も指さずに日盛りの表へ飛び出した。 代助は暑い中を馳(か)けないばかりに、急ぎ足に歩いた。日は代助の頭の上から真直(まっすぐ)に射下(いおろ)した。乾いた埃が、火の粉のよう…

森鷗外『山椒大夫』

炉の向側には茵(しとね)三枚を畳(かさ)ねて敷いて、山椒大夫がすわっている。大夫の赤顔が、座の右左に焚いてある炬火(たてあかし)を照り反して、燃えるようである。三郎は炭火の中から、赤く焼けている火筋(ひばし)を抜き出す。それを手に持って、暫く見て…

宮本輝『螢川』

千代とて、絢爛たる螢の乱舞を一度は見てみたかった。出逢うかどうか判らぬ一生に一遍の光景に、千代はこれからの行末をかけたのであった。 また梟が鳴いた。四人が歩き出すと、虫の声がぴたっとやみ、その深い静寂の上に蒼い月が輝いた。そして再び虫たちの…

藤枝静男『雛祭り』

私の妻は今年の二月に死んだ。妻は平生から全くの無宗教であり葬式をひどくきらっていたので、私はその数日まえから居間に飾りつけられていた桃の節句の雛壇の下に死体を寝かせ、家のもの以外には通知せず、まわりをできるだけ沢山の花で埋め、ときどき線香…

上林暁『極楽寺門前』

帝都座の地下室の「モナミ」に入って冷いものを飲んだ。小さい旗を立てたお子さまランチを見ると、今度は多根子を連れて来たいと思った。大ぜいの人の混み合う夜店をひやかしたりして、高野フルーツに寄って、西瓜を買った。 私たちは意気揚々として西瓜を持…

田宮虎彦『沖縄の手記から』

空襲はまたはげしくくりかえされるようになった。暁闇の空に曳光弾が花火のように弧を描き、はげしい空襲の中に、やがて朝焼けに空が焼けて、夜が明けていく日もあるようになった。幾機かのB29がはるかな上空に飛行機雲をつぎつぎにひいて飛び去る度数もはげ…

阿部昭『大いなる日』

さよならだ。永かったつきあいも、これでさよならだ。僕はいちばん古い友達をなくした。…… みんなでおやじの病室の後始末をしてから、僕はまだ何か忘れものはないかと一人で見てまわり、最後に荷物の残りと自分の靴をぶらさげてゆっくり階下へ降りて行った。…

小沼丹『懐中時計』

上田友男の家には使っていない懐中時計が二つある。二個とも彼の亡くなった父君の持物である。彼の父君は軍人だったそうで、一つは恩賜の銀時計、もう一つはロンジンの懐中時計である。この裡、恩賜の時計は譲る訳に行かぬがロンジンなら譲らぬものでもない…

丸谷才一『笹まくら』

香奠はどれくらいがいいだろう? 女の死のしらせを、黒い枠に囲まれた黄いろい葉書のなかに読んだとき、浜田庄吉はまずそう思った。あるいは、そのことだけを思った。その直前まで熱心に考えつづけていたのが、やはり香奠のことだから、すぐこんなことを思案…

庄野潤三『秋風と二人の男』

そこは丁度、百貨店の斜めうしろの角に当るところであった。蓬田は舗道の端に寄って立って、さっきから急にひんやりした風が吹き始めた街を見たり、通る人を見たりしている。 この前とは逆に、彼が駅まで来た時に電車が入って来た。それに乗ると早く着き過ぎ…

辻邦生『旅の終り』

「死んだのは若い男女で、何か毒薬で自殺したんです」妻が日本語で彼の言葉をくりかえした。 私はジュゼッペの顔をみた。「イタリアで……?」私は思わずいった。彼は敏感にさとって肩をすくめた。 「愛してたんでしょうが……よくあることです」 私たちはその夜…

島尾敏雄『出発は遂に訪れず』

重なり過ぎた日は、一つの目的のために準備され、生きてもどることの考えられない突入が、その最後の目的として与えられていた。それがまぬかれぬ運命と思い、その状態に合わせて行くための試みが日日を支えたいたにはちがいないが、でも心の奥では、その遂…

安岡章太郎『海辺の光景』

母親はその息子を持ったことで償い、息子はその母親の子であることで償う。彼等の間で何が行われようと、どんなことを起そうと、彼等の間だけですべてのことは片が附いてしまう。外側のものからはとやかく云われることは何もないではないか? 信太郎は、ぼん…

井伏鱒二『珍品堂主人』

二重輪の枠の外側に、呉須絵で熊笹の葉が散らされて、輪の内側に辰砂で二艘の船が現わしてある。すこぶる鮮明な辰砂釉です。伝世の辰砂の皿は、今までに紹介されたことはないのではないでしょうか。この皿に惚れこんだ丸九は、今から展覧会の企画に気負いこ…

小川国夫『貝の声』

――もう一杯 ――へえ、旦那 ――貝殻の色ってのは褪せないものだな、海にある儘だ ――へえ、全く…… ジャンガストは、夕刊を読んでいる浩の横顔を、見詰めていた。バーテンはそれが気になったので ――安南人ですな、といった。 ジャンガストは貝殻をカウンターに置…

室生犀星『杏っ子』

「映画、演劇、お茶、何でもござれ、四年間の分をみんな遊べ、おれと出かけろ。」 「お伴をいたします。」 「出来るだけ綺麗になれ、かまうものか、ぺたぺた塗れ。」 「ふふ、……」 「たとえばだ、おれがよその女と口をきいても妬くな。」 「妬くものですか。…

円地文子『妖』

坂と母屋との中段になる部屋もそこにひとり寝るようになってから、思いの外、千賀子にさまざまなことを教えた。非力な千賀子は夜具の上げ降ろしを苦にして、その部屋にソファ兼用のベッドを置いた。夜は勿論、昼でも机の前の仕事に疲れた時は、時構わずそこ…

石川淳『紫苑物語』

夜になると、たれも手をつけるものがいるはずはないのに、首はおのずから落ちて、真下のくぼみに移った。また元にかえすと、また落ちる。ついに、その落ちたところからうごかないようになった。そこに、崖のはなの、ほどよきところに、ほとけだちの立ちなら…

幸田文『おとうと』

太い川がながれている。川に沿って葉桜の土手が長く道をのべている。こまかい雨が川面にも桜の葉にも土手の砂利にも音なくふりかかっている。ときどき川のほうから微かに風を吹き上げてくるので、雨と葉っぱは煽られて斜になるが、すぐまたまっすぐになる。…

串田孫一『秋の組曲』

湖の岸から少しずつ離れて行く道が、暫らく土手のわきをとおって行くと、向うの方に峠が見える。二つの丘がなだらかな斜面を交わせるところで、そこにはもう一本の木も立っていない。それは私が勝手に峠と思ったが、その向うの草の斜面はどんな具合に続いて…

北杜夫『幽霊』

……僕は書物の群のなかにひとり佇んでいた。うすい日ざしが窓からさして、床に積まれた本の皮表紙をにぶくひからせ、埃についた指跡をうきあがらせた。無数の本たちはいつものとおりおし黙っていた。そのなかに立って、僕は目をこらしてあたりを窺った。もし…

吉行淳之介『驟雨』

高い場所から見下ろしている彼の眼に映ってくる男たちの扁平な姿、ゆっくり動いていた帽子や肩が、不意にざわざわと揺れはじめた。と、街にあふれている黄色い光のなかを、煌めきつつ過ぎてゆく白い条(すじ)。黒い花のひらくように、蝙蝠傘がひとつ、彼の眼…

小島信夫『小銃』

私は小銃をになった自分の影をたのしんだ。日なた、軍靴の土煙をすかしてうつる小銃の影の林の中で、ふとその影をさがすということを私はいくどもした。その林はひびきとともに動いてゆく。さがしあてた自分の小銃の這う地面が、なつかしく、故郷のように思…

永井龍男『風ふたたび』

数番の仕掛花火が、終りを告げたばかりらしく、濃い一面の白煙が、ほのかに余燼に映えつつ、川上へもうもうと吹き上げられていた。対岸のビルの灯も、川を渡る総武線の灯も、その中に見えがくれした。 ほっと一息入れた川筋を見下していると、乱れ乱れたざわ…