2014-02-01から1ヶ月間の記事一覧

ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(若島正 訳)

二〇代から三〇代前半にかけて、私は自分の苦悩をはっきり理解していたわけではなかった。肉体は何を渇望しているかわかっていても、肉体の訴えを心がことごとく退けてしまうのだった。あるときは羞恥心や恐怖を覚えても、またあるときには無軌道なまでに楽…

ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(佐藤亜紀 訳)

ロリータ。我が命の光、下腹の炎。我が罪。我が魂。ロ、リー、タ。舌先が三歩、後ろに下がり、三歩目に軽く歯を叩く。ロ。リー。タ。 朝、四フィート十インチで片足だけソックスを履いて立つ彼女はロ、ただのロだった。スラックスの時にはローラ。学校ではド…

マルグリット・ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』(多田智満子 訳)

人びとはこれらの君主がいずれも王国を受け継ぎ、人民を支配し、跡継ぎをもうけた、ということを漠然と知っていた。その他のものは何ひとつ残っていなかった。これらおぼろげな王朝は、ローマよりも古く、アテナイよりも古く、トロイの城壁のもとにアキレウ…

マルグリット・ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』(多田智満子 訳)

計画中止の期間に世界とわたしとが経験したあらゆることが、過ぎ去った時代の年代記を豊富にし、この帝位に在る人物の上に、他の光、他の影を投げていた。かつてわたしはこの人を知識人・旅人・詩人・恋人として考えていた。これらの面は少しも消えていない…

ソルジェニーツィン『収容所群島』(木村浩 訳)

「私は認めるわけにいきません。審理は正しく行われませんでしたから」私はあまり歯切れよくなく言った。 「じゃ、仕方がない。では最初からやりなおすか!」彼はこわい顔つきになった。「警官のいる収容所にぶち込んでやるぞ」そう言って、私の調書を取り上…

ヴォルテール『カンディード』(吉村正一郎 訳)

彼がこれをア・プリオリに証明しているうちに、船は真二つに裂けて、みんな死んでしまい、助かったのはパングロスとカンディードと、有徳の再洗礼教徒(アナバプティスト)を溺死させたあの水夫のけだものだけであった。このならずものは運よく海岸まで泳ぎつ…

ウェルギリウス『アエネーイス』(泉井久之助 訳)

あたかもその日この城の、王エウアンデルは偉大なる、 ヘルクレースと神々の、ために祭儀を例のよう、 都の前の林中に、執り行なってこの父と、 共に子息のパルラスも、同時に若い人たちの、 重立つものも少数の、元老たちももろともに、 香烟ささげ屠られた…

新共同訳『旧約聖書』「創世記」

アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは…

笙野頼子『説教師カニバットと百人の危ない美女』

手紙の文体はどれも結構似ている。うるさい程の敬語、年齢がすぐ判る趣味や固有名詞、無駄な淑やかさ、不毛な上品さ、空回りする清楚さ、わざとらしい女らしさ、建前とルサンチマンの激しい葛藤、歪んだ世界認識、ずれまくりの自己像、そして、「鬱勃たるパ…

志賀直哉『城の崎にて』

或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。足を腹の下にぴつたりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がつてゐた。他の蜂は一向に冷淡だつた。巣の出入りに忙しくその傍を這ひまはるが全く拘泥する様子はなかつた。忙しく立ち働いてゐ…

ミハイル・バフチン『小説の言葉』(伊東一郎 訳)

狭義の詩的イメージ(形象=比喩)においては、あらゆる運動、すなわちイメージとしての言葉の動きは、(そのあらゆる要素を含めた)言葉と(そのあらゆる要素における)対象との間に展開される。言葉は対象そのものの汲みつくしがたい豊かさと矛盾をはらん…

ミハイル・バフチン『小説の言葉』(伊東一郎 訳)

下層の見世物小屋や定期市の仮舞台においては道化のちぐはぐなことばや、あらゆる〈言語〉と方言の滑稽な口真似が響きわたり、ファブリオー〔十二―十三世紀にフランスで生まれた滑稽・風刺的な小話〕や、シュヴァンク〔中世ドイツで行なわれた風刺的物語〕、…

プラトン『国家』(藤沢令夫 訳)

「してみると、三角琴やリュディア琴などの、およそ多くの絃をもち、多くの転調を可能にするようなすべての楽器を作る職人を、われわれは育てはしないだろう」

プラトン『国家』(藤沢令夫 訳)

「われわれには、歌と曲調のなかで多くの絃を使うことも、あらゆる調べ(音階)を含むような様式も、必要ないことになるだろう」

プラトン『国家』(藤沢令夫 訳)

「神官はやって来て、彼らアカイア勢の人々には、トロイアを攻略のうえその身は無事帰国することを神々が許したもうように、だが娘のことは、彼らが償い代(しろ)を受け取り、神(アポロン)を畏れて、どうか釈放して自分に返してくれるようにと祈った」

プラトン『国家』(藤沢令夫 訳)

「では、彼らがその叙述を進めるのは、単純な叙述によるか、あるいは〈真似〉を通じて行なわれる叙述によるか、あるいはその両方を用いた叙述によるか、このいずれかではないかね?」

ホメロス『イリアス』(松平千秋 訳)

クリュセスは捕われの娘の身柄を引き取るべく、莫大な身の代(しろ)を携え、手に持つ黄金の笏杖(しゃくじょう)の尖(さき)には遠矢の神アポロンの聖なる標(しるし)、羊の毛を結んで、船脚速き軍船の並ぶアカイア勢の陣営に現われ、アカイア軍の全員、わけても…

プラトン『国家』(藤沢令夫 訳)

「してみると」とぼくは言った、「医術は、医術の利益になることを考察するものではなく、身体の利益になることを考察するものなのだ」 「そう」と彼。 「また馬丁の技術とは、馬丁の技術の利益になることを考えるものではなく、馬の利益になることを考える…

プラトン『国家』(藤沢令夫 訳)

「君がいま言ったような厳密な意味での医者は、金を儲けることを仕事とする者のことだろうか、それとも、病人の世話をすることを仕事にする者のことだろうか。いいかね、あくまで厳密な意味での医者のことを聞いているのだよ」 「病人の世話を仕事とする者の…

プラトン『国家』(藤沢令夫 訳)

「もう二度とわれわれのあいだでこんな食い違いが起らないように、君が『支配者』とか『強い者』とか言うのはどちらの意味なのか、ここではっきりと決めておいてくれたまえ。それは、ふつうの意味での支配者・強者のことかね、それとも、君がさっき言った厳…

オスカー・ワイルド『真面目が肝心』(鳴海四郎 訳)

「もちろんロンドンにも家はお持ちでしょう? グエンドレンのような、純情素直な娘はとてもいなかぐらしなどできませんからね」 「ベルグレーブ・スクエアに一軒持ってますが、いまブロクサム卿の奥さんに一年契約で貸してあるんです。もちろん、半年前に通…

オスカー・ワイルド『真面目が肝心』(鳴海四郎 訳)

「お年は?」 「二十九です」 「まさに適齢期。ところで、かりにも結婚しようという男性は万事を知りつくしているか、あるいは何一つ知らないか、どちらかであらねばならないというのが私の持論ですが、あなたはどちら?」 「ぼく、なんにも知らない方です」…

オスカー・ワイルド『真面目が肝心』(鳴海四郎 訳)

「率直に言わせてもらいますが、あなたのお名前は私の花むこ候補者名簿には載ってないんです。もっとも私の名簿はボールトン公爵夫人と同じものですがね。二人して共同作業をしていますから。とはいえ、もしも私の質問にたいするお返事が、娘を思う親心にか…

オスカー・ワイルド『つまらない女』(杉崎和子 訳)

「ああいうアメリカの娘さんたちが恰好な相手をみんな拉致していってしまうのよ。どうして自分の国にじっとしていられないものかしら。アメリカは女の楽園だっていつもいっているじゃあありませんか」 「実際に楽園なんですな。だからこそイヴ同様、何とかし…

ウラジーミル・ナボコフ『フィアルタの春』

フィアルタの上の白い空はいつの間にか日の光に満たされてゆき、いまや空一面にくまなく陽光が行き渡っていたのだ。そしてこの白い輝きはますます、ますます広がっていき、すべてはその中に溶け、すべては消えていき、気がつくとぼくはもうミラノの駅に立っ…