2013-01-01から1ヶ月間の記事一覧

周恩来『我的修養要則』

適切に自分の長所を伸ばし、具体的に自分の短所を正せ。

魯迅『死』(『且介亭雑文末編・附集』所収)

他人の歯や眼を傷つけておきながら、報復に反対し、寛容を主張する人間には、絶対に近づいてはならない。

デュラス『愛人 ラマン』(清水徹 訳)

思えばわたしの人生はとても早く、手の打ちようがなくなってしまった。十八歳のとき、もう手の打ちようがなかった。十八歳から二十五歳のあいだに、わたしの顔は予想もしなかった方向に向ってしまった。十八歳でわたしは年老いた。だれでもそんなふうなのだ…

デュラス『モデラート・カンタービレ』(田中倫郎 訳)

「時々ママはね、坊やがわたしの想像の世界に生きていて、こうして生きているのが本当じゃないような気がするのよ」

『荀子』

吾の短なる所を用(もっ)て、人の長ぜる所に遇(あた)ること無かれ。 自分の不得意なことで、他人の得意なことと争うべきではない。自分の不得意なことを知り、自らの分をわきまえるならば、ことさらに他人の得意とすることと争うような愚は避けられるのである…

巴金『滅亡』

彼の心の中の闇はこの時初めて訪れたものではなかった。長い間彼の心の中には闇しかなく、特に今日はそれが濃いのであった。

チェーホフ「三人姉妹」(神西清 訳)

マーシャ どうしたことでしょう、わたしそろそろ、お母さんの顔を忘れかけているわ。わたしたちのことだって、そういつまでも人は覚えちゃいないでしょうよ。忘れてしまうわ。 ヴェルシーニン そう、忘れるでしょう。それがわれわれの運命である以上、どうに…

チェーホフ「かもめ」(神西清 訳)

すると、夜どおしまた、吠えられるのか。さあ、事だぞ。わたしは田舎へ来て、思う通りの暮しのできた例(ため)しがない。前にゃよく、二十八日の休暇を取っちゃ、ここへやって来たもんだ。骨休めや何やら――とまあいった次第でな。ところが、くだらんことに責…

魯迅『娜拉走後怎様』(『墳』所収)

人は忘れることができるため、受けた苦痛からしだいに脱離できる。また忘れることができるために、往々にして前人と同じような誤ちを再び犯す。 ※題名の「娜拉」は、イプセンの『人形の家』の主人公ノラのこと

魯迅『朝花夕拾・小引』

人間思い出しか残らなくなった時には、生きていてもつまらないということなのだろうが、時には思い出さえないことだってあるのだ。

J・D・サリンジャー「フラニー」(野崎孝 訳)

その口調がまた、ほとんど例外なしに、学生らしい独断的な物言いである。やかましい論争の的になっている問題でも論じ合ってるみたいで、過去何百年もの間、学外の無学者どもが、あるいは派手に、あるいは地味に、空しい論議を重ねるばかりだった問題を、自…

J・D・サリンジャー「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」(野崎孝 訳)

事実がはっきり分るのはいつも遅きに失するのが通例だけれど、「喜び」と「仕合せ」の最も著しい違いは「仕合せ」は固体であるに反し、「喜び」は液体だということだ。

魯迅『我要騙人』(『且介亭雑文末編』所収)

疑うことは欠点ではない。絶えず疑い、結論を下さないのが欠点である。

魯迅(一九三五年三月十三日付簫軍(しょうぐん)、簫紅(しょうこう)宛の手紙より)

そらとぼけることはよくないが、どこでも正直であるというのもまたよくない。これはどんな時かによるのである。友人と腹をわって話す時に、用心はいらないが、敵と向かい合う時は、絶えず防御しなければならない。友人と一緒の時は服を脱いでもよいが、戦い…

カミュ『異邦人』(窪田啓作 訳)

健康なひとは誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ。

ジャン・ジュネ『泥棒日記』(朝吹三吉 訳)

わたしはわたしの愛情を徒刑囚たちに捧げた。わたしは、可憐な名前で彼らを呼び、貴重なものを蔽うために、最も微妙な暗喩を使って彼らの罪を言い表わすことを欲したのだった(しかしどうしてわたしは、そうしたヴェールの下の、あの殺人者の豪奢な筋肉組織…

『碧巌録』

有事を将(もっ)て無事と為すこと莫かれ。往往に事(じ)は無事より生ず。 何か変わったことがあれば、もう他には何も起こらないだろうと安心してはならない。しばしば物事は、何もないところから生じる。

魯迅『写在「墳」後面』(『墳』所収)

確かに私は他人を解剖する。だがもっと多くは容赦なく自分自身を解剖することであった。

ディケンズ『大いなる遺産』(山西英一 訳)

良心というものは、大人なり、子供なりを呵責するとなると、まことにもって恐ろしいものである。だが、少年の場合に、その秘密の重荷が彼のズボンのなかにひそませたもうひとつの秘密と合体するとき、(わたしはあえて証言するが)それはまさに重大な懲罰で…

トーマス・マン『魔の山』(関泰祐・望月市恵 訳)

性格はすべて両面を持っているが、性格をいいあらわす名称には、ざんねんなことに、いい意味にしても、わるい意味にしても、とにかく道徳的批判がふくまれるのが常である。

『論語』

之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり。 自分の知っていることは知っているとし、知らないことは知らないとする。これが知るということだ。

〔俗諺〕

「貪(たん)」字と「貧」字は同様に書く。 「貪」の字と「貧」の字とは書き方が同じようである。何もかもほしいと思う貪欲な者はすなわち貧乏な者であるというたとえ。「『貪』字は『貧』字に近し」ということわざもある。

ヘンリー・ミラー『北回帰線』(大久保康雄 訳)

ぼくは諸君のために歌おうとしている。すこしは調子がはずれるかもしれないが、とにかく歌うつもりだ。諸君が泣きごとを言っているひまに、ぼくは歌う。諸君のきたならしい死骸の上で踊ってやる。 歌うからには、まず口を開かなければならぬ。一対の肺と、い…

〔俗諺〕

貪ること多ければ嚙むを得ず。 食物をたくさん一度に食べようとしたら嚙み砕けない。一度にたくさんのことをやろうとすると、うまくゆかない。物事は一歩一歩進めなければいけない。一挙に解決しようと欲張ってはいけない。

『亢倉子』

恩(おん)甚しければ則ち怨み生じ、愛多ければ則ち憎しみ至る。 人になさけをかけすぎると、かえって怨まれてしまい、愛情をかけすぎると、かえって憎しみを受ける。

トーマス・マン『トニオ・クレエゲル』(実吉捷郎 訳)

彼は生きんがために働く人のようには働かなかった。生きている人間としての自己には、なんらの価値を置かないで、ただ創作者としてのみ顧慮せられることを願う故に、仕事をする以外にはなにも欲せず、そしてそのほかの点では、演ずべき役のない限り、無価値…

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(野崎孝 訳)

彼女が世間に見せている高慢な倦怠の表情の裏には、何かが隠されていた――ポーズというものは、はじめのうちはともかく、結局はたいてい何かを隠す仮面になる――で、ぼくはある日、それが何かに気づいたのだ。

巴金『愛情三部曲・電』

過去の生活が人の心に残した跡は、なかなか消せないことを私も知っている。だが人は憂愁にすがって生きて行くことはできない。

老舎『四世同堂』

恨みの反対の端は愛だ。その両端は折り曲げてくっつけ、丸い輪にすることができる。

フォークナー『死の床に横たわりて』(佐伯彰一 訳)

上にゆきつくと、奴はもう鋸を使うのを止めて、木屑の散らばった中で、二枚の板を合わせて見ている。両側が影になったあいだでみると、金みたいに光って、しかも手斧(ちょうな)の刃のあとがなめらかな波動をなして側面に見えて、柔らかい金そっくりだ。腕の…