2012-06-01から1ヶ月間の記事一覧
見知らぬひとよ、もし通りすがりにきみがわたしに会って、 わたしに話しかけたいのなら、どうしてきみがわたしに話しかけてはいけないのだ? そして、どうしてわたしがきみに話しかけてはいけないのだ?
大乗仏教の哲人たちは、宇宙の本質は空(くう)であると説いている。同じ宇宙の一小部分であるこの本に関する限り、彼らの言うところはまったく正しい。絞首台や海賊たちがこの本をにぎわわしており、標題の「汚辱」という言葉は大仰だが、無意味な空騒ぎの背…
あまり善良すぎることをするのはおやめなさいよ。少し気楽に、自然に、そして意地悪になさいな。一生に一度くらい、少し悪者になってみるのも、案外いいものよ。
幼年のころ、わたしはみずから自分を蜂の巣のように想像した。さまざまのなんでもない、ごく平凡な人びとが、生活についての自分の知識や思考の蜜を蜜蜂のようにそこへ運んできては、だれでもできるものでわたしの精神を惜しげなく富ましてくれるのだ。しば…
絵から絵へと眼を移しながら、ぼくはある何かを感じることができた。形象と形象とが交互に入りまじり、並びあい、色のうちに形象の奥にひそむ命がほとばしり、色と色とが互いに生かしあい、あるときにはひとつの色がふしぎに力強くほかの色すべてを支えてい…
三本のマッチ 一本ずつ擦る 夜のなかで はじめのはきみの顔を隈なく見るため つぎはきみの目をみるため 最後のはきみのくちびるを見るため 残りのくらやみは今のすべてを思い出すため きみを抱きしめながら。
「わしが言葉を使うときには」と、ハンプティ・ダンプティは、鼻であしらうように言いました。「その言葉は、わしが決めただけのことを意味するんじゃ――それ以上でも、以下でもなくな。」 「問題は」と、アリスは言いました。「一つの言葉に、そんなにいろん…
良心というものは、それぞれ個人の中にあって、社会がそれ自体を保持するために発展させてきた法則の番人なのだ、と私は思う。われわれがその法則を破らないように見張るために配置された、われわれの心の中の警官である。自我という中央のとりでに座をしめ…
ナショナリストの考え方の中には、真実なのに嘘、知っているのに知らないことになっているという事実が、いろいろある。知っている事実でも、認めるのに耐えられないというので脇へ押しのけられたまま、意識的に論理的思考から外されてしまうことがあるかと…
雪は、また、マイケル・フュアリーが埋もれている丘の上の淋しい教会墓地のいたるところに降っている。雪はゆがんだ十字架や墓石の上に、小さな門の穂先の上に、不毛ないばらの上に、深々と降り積っている。彼の魂は雪の降る音を耳にしながら、しだいに知覚…
会話において、何かをかくしているものほど、危険なものはないよ! あるフランスの老賢人が私にいったことがある。話というものは、考えることを妨げるための、発明だ、とね。そしてまた、人がかくそうと思っていることを発見するための、誤りのない方法でも…
書物はしばしば別の書物のことを物語る。一巻の無害な書物がしばしば一個の種子に似て、危険な書物の花を咲かせてみたり、あるいは逆に、苦い根に甘い実を熟れさせたりする。
不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。不条理は人間と世界と、この両者から発するものな…
わかっているでしょうが、手紙を書くのは相手に書くので自分に書くのじゃありません。だから自分の考えていることを言うよりは、なるべく相手を喜ばせることを書くようになさい。
おろしたてから着物を惜しめ、若いうちから名は惜しめ。
自分自身の体験と思索によって到達した考えは、たいがいの場合われわれはおだやかにつつしみ深く口にするものである。
恋をすると、すぐ身近かに、しかしいくら願っても手のとどかない巨大な幸福があるような気がする。しかもその幸福は、ただ一つの言葉、一つの微笑にのみ左右される。
愛し合わなくなった時に、愛し合ったことを恥ずかしく思わない人は、めったにいない。
恋は、人間を何ほどか自己以上のものにし、同時に、何ほどか自己以下のものにする。
天国にはそんなに美しい天女がいるのか? 酒の泉や蜜の池があふれてるというのか? この世の恋と美酒(うまざけ)を選んだわれらに、 天国もやっぱりそんなものにすぎないのか?
男は恋をささやくときは四月みたいだけれど、結婚してしまえば、十二月よ。娘も、娘のころは五月だけれど、人妻になると、空模様は変ってしまう。
生れてから死ぬまで、人間ってものは、醒めてるかぎり、たえずなんらかの教育を受けてるわけだよ。そしてその教育者の中でも第一番は、いわゆる人間関係って奴だな。 ※太字は出典では傍点
自分にへつらう者にたいして我々は好んで耳をかす。そして自分はその賞讃に当らないと反対し、またさかしき恥らいの色で面を染めながら、内心ではその賞讃にたいして喜んでいる。
「運命はな」と、ドン・キホーテ。「災難にあわせても、一方の扉をかならず開いて、救いの道をのこすのじゃ。」
人々は、お金では貴いものは買えないという。そういうきまり文句こそ、貧乏を経験したことのないなによりの証拠なのだ。
おめえがどんな人間と歩いてるか、言ってみな、おめえがどんな人間か、言ってやるだ。
富は一つの才能であり、貧しさも同様に一つの才能である。金持になった貧乏人は、贅沢な貧しさをひけらかすであろう。
流行におくれまいとしたり、隣人をおどかそうとしたり、いや自分で自分を偉い者と思いたいために本を買う人がいることを忘れてはならない。
生活というものは早晩、落ち着くところへ落ち着くものなのだ。どんな衝撃を受けても、人はその日のうちか、たかだか翌日には――失礼な言い方で恐縮だが――もう飯を食う、そしてそれがまた初の気休めともなるものなのである。
人生とは、病人の一人一人が寝台を変えたいという欲望に取り憑かれている、一個の病院である。