2012-02-01から1ヶ月間の記事一覧

寺山修司『幸福論―裏町人生版―』

出会いに期待する心とは、いわば幸福をさがす心のことなのだ。

寺山修司『幸福論―裏町人生版―』

こうした、「交際を広げたい」という博愛思想は、同時に身近かにいる人たちも他人とみなす、という「疎外感」にうらうちされているとも言える。出会いが新鮮であるためには、そこに馴れあいなどがあってはいけないからである。

寺山修司『幸福論―裏町人生版―』

空想とは現実を見る一つの方法論であり、現実とは、万人の空想に支えられた楼閣である。

寺山修司『幸福論―裏町人生版―』

本来、肉体には美と同じ重みで真理や善も存在すべきであって、「肉体真」「肉体善」ということばがあってもいいはずなのである。

寺山修司『不思議図書館』

「他人の死」は虚構だから、おもしろいに越したことはない、といいながら、いつのまにか虚実の境界(もともとそんなものはないのだが)を見失って、「他国の戦争」を心待ちにしはじめる。 だが、われわれが住んでいる場所もまた「他国」に過ぎないということ…

寺山修司『不思議図書館』

人間のエゴイズムをすべてうけ入れながら、いつも言いなりになり、ときどき自然に向って「帰ろうかな」と思っている犬のやさしさは、飼いならされた男たち、家路をいそくパパたちにもつながるさみしさを思わせるだろう。 生きるかぎり、人もまた見えない首輪…

寺山修司『ポケットに名言を』

私には、忘れてしまったものが一杯ある。だが、私はそれらを「捨てて来た」のでは決してない。忘れることもまた、愛することだという気がするのである。

寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』

さよならだけが人生だ、というつもりはないが、さよならにだけはおさらばしたくない――というのが永久革命の理というものではないだろうか?

寺山修司『家出のすすめ』

しかし、「自由」という言葉と「明日」という言葉は似ているのであって、それが現在形で手に入ったと思われるのは錯覚か死を意味するのです。

寺山修司『家出のすすめ』

しかし、不満のない人生など、闘いのない人生など、誰がいったい我慢できるものか。

寺山修司『家出のすすめ』

人間は、一つの言葉、一つの名の記録のために、さすらいをつづけてゆく動物であり、それゆえドラマでもっとも美しいのは、人が自分の名を名乗るときではないか……、とわたしはふと考えました。

寺山修司『家出のすすめ』

言葉というやつは、つまるところは自分の名をいうことではないか、というふうにも考えられるのです。 犬がおしっこで自分の行為を記録するように、人はさまざまの言葉で自分の名を記録しようとこころみる。要するに生きるということは一つの名の記録へのプロ…

寺山修司『家出のすすめ』

「期待する」ということに期待しすぎると幻滅するものです。

寺山修司『家出のすすめ』

しかし、現代にあって、人に悪口をいわれぬような人とは、おそらく無能な人であろう、というのがわたしの推理であります。

寺山修司『家出のすすめ』

ところで、わたしは言行不一致はそれなりで、なかなかいいものではないか、と考えています。すくなくとも、言行不一致を平気で容認していけるような太い神経だけが、長い歴史をすこしずつ変革してきたと考えられるからです。このことは、たとえば日本の反体…

寺山修司『家出のすすめ』

望郷の歌をうたうことができるのは、故郷を捨てた者だけである。そして、母情をうたうこともまた、同じではないでしょうか?

寺山修司『家出のすすめ』

一人だけ暮らすことが不可能になり、福祉事務所から人が来て、わたしを親類のもとにあずけさせることになったのはその年の冬です。わたしが家を去る日、ふと思いついて畳をめくってみると、そこには母のヘソクリも成田さんの守護札もなくて、たった一冊の春…

寺山修司『家出のすすめ』

おそらく平凡な家庭の母子関係、それも一人息子と母親の関係においては、まったく母は子を食べようとするでしょう。

竹内好「近代主義と民族の問題」

しかし絶望に直面したときに、かえって心の平静が得られる。ただ勇気をもて。勇気をもって現実の底にくぐれ。一つだけの光をたよって、救われることを幻想してはならぬ。創造の根元の暗黒が隈なく照らし出されるまで、仕事を休んで安心してはならない。汚れ…

川端康成「横光利一弔辞」

さびしさの分る齢を迎えたころ、最もさびしい事は来るものとみえる。

田村泰次郎「肉体が人間である」

私は肉体の生理こそ、最も強烈にして唯一の人間的営為であることを、骨身に徹して知った。人間のどんな考えも、肉体を基盤にしなければ、頼りにならないものであることを、私は信じる。肉体こそ、すべてだ。三十七歳の私の肉体が、それを確信している。私は…

田村泰次郎「肉体が人間である」

私は思想というものを、自分の肉体だと考えている。自分の肉体そのもの以外に、どこにも思想というものはないと思っている。従って、私は自分の肉体性が、まだ十分作品行動として具体化されていないということで、私の小説はまだ十分に思想的でないとは自覚…

福田恆在「一匹と九十九匹と」

文学は阿片である――この二十世紀においては宗教以上に阿片である。阿片であることに文学はなんで自卑を感ずることがあらうか。現代のぼくたちの文学をかへりみるがいゝ――阿片といふことがたとへ文学の謙遜であるにしても、その阿片たる役割すらはたしえぬも…

福田恆在「一匹と九十九匹と」

この一匹の救ひにかれは一切か無かを賭けてゐるのである。なぜなら政治の見のがした一匹を救ひとることができたならば、かれはすべてを救ふことができるのである。こゝに「ひとりの罪人」はかれにとつてたんなるひとりではない。かれはこのひとりをとほして…

福田恆在「一匹と九十九匹と」

思想史は無数の矛盾撞著にみちみちてゐる。気のはやい思索家はそのことを自己の懐疑思想の動機とする。が、これほどばからしいことはない。ぼくは相反する思想にみたされた二千年の哲学史を、その矛盾のゆゑに信ずるのである。それらはたがひに矛盾するもの…

福田恆在「一匹と九十九匹と」

たれもかれもがおのれの立場を固執してゆづらない。それは思想や信念のたしかさからきてゐるのではなく、むしろその逆であり、思想をもちえぬがゆゑに、眼前の事象にとらはれてうごきがとれぬのである。ひとびとのかたくなさはひとへに事実のかたくなさにす…

中村光夫「「近代」への疑惑」

ところで飜って考えれば、僕らは「近代」というものに対してこういういわば生活そのものに根ざした健康な絶望乃至は自信を持ち得るであろうか。「近代」とは僕らの精神にそれほど手応えのある実体であろうか。少くも僕はこうした疑問についてまず考えざるを…

花田清輝「錯乱の論理」

夜の神秘は、すでに問題ではない。最も解きがたいものは真昼の神秘だ。

保田與重郎「文明開化の論理の終焉について」

大正期の文化文物のすべての成立する因由であり、また文芸の発想であるものが、すべて「臆病」である。外に出る文章でなく、内攻する文章である。決意の表現でなく、条件のいい方である。彼らは理論の統一整合を専ら関心し、現実のもつ矛盾と混沌の表現に極…

高見順「描写のうしろに寝てゐられない」

作家は黒白をつけるのが与えられた任務であるが、その任務の遂行は、客観性のうしろに作家が安心して隠れられる描写だけをもってしては既に果し得ないのではないか。白いということを説き物語るためだけにも、作家も登場せねばならぬのではないか。作家は作…