2011-04-01から1ヶ月間の記事一覧

立原正秋「猷修館往還」

彼が父から享(う)けついだものは、複雑な家系とそこから派生する生きる苦しさだけだった。

立原正秋「くれない」

「あなたはいつも茶碗をみるような目で女を見るのね」

倉田百三『出家とその弟子』

恋が互いの運命を傷つけないことはまれなのだ。恋が罪になるのはそのためだ。

倉田百三『出家とその弟子』

恋の渦巻(うずまき)の中心に立っている今のお前には、恋それ自身の実相が見えないのだ。恋の中には呪いが含まれているのだ。それは恋人の運命を幸福にすることを目的としない、否むしろ、時として恋人を犠牲にする私(わたくし)の感情が含まれているものだ。…

倉田百三『出家とその弟子』

さびしい時はさびしがるがいい。運命がお前を育てているのだよ。

倉田百三『出家とその弟子』

お前のさびしさは対象によって癒されるさびしさだが、私のさびしさはもう何物でも癒されないさびしさだ。人間の運命としてのさびしさなのだ。それはお前が人生を経験して行かなくてはわからない事だ。お前の今のさびしさはだんだん形が定まって、中心に集中…

倉田百三『出家とその弟子』

さびしいのがほんとうだよ。さびしい時にはさびしがるよりしかたはないのだ。

高橋和巳『邪宗門』

悪魔は一人の心の中には住まず、群衆の中に宿る。無責任という、悪魔のもっとも好む装いのもとに――。人間の下意識に潜む衝動は、彼が孤独に、心理の深みを覗き込もうとする時にはあらわれず、彼が群衆の一員となった時、群衆の叫びとしてあらわれる。

高橋和巳『邪宗門』

決断をためらうことが彼女から食欲を失わせ、自分に自信がもてなくなって彼女は責任を人に転嫁した。そう、彼女にはわかっていた。彼女が食を絶ったのは、〈決断〉から逃がれたかったからだ。彼女は自分を放棄して待っていたのだ。誰かが彼女をかっ攫うか、…

高橋和巳『邪宗門』

日頃住んでいる場所から離れれば、それだけで重荷や不愉快から解放されるように思ったのは、愚かな夢にすぎなかった。人間の住むところ、すべてが地獄であり、どこまで行っても自分も人間の一員である以上、おそらく救われることもない。

高橋和巳『邪宗門』

水というものは眺めているだけでも、なぜか人に回想を誘う。

高橋和巳『邪宗門』

そして自殺者が最後まで虚栄をすてきれずに自分の死を世間の人がどう見るかに苦慮するように、彼は意外な明皙さで、この暗殺を人々はどう見るだろうかと頭の片隅で考えていた。

安部公房『飢餓同盟』

しかし、おれのような人間は、いつも逃げだそうとしながら、実は停ることを選んでいる場合が多いのだ。

安部公房『飢餓同盟』

「ぼくがどうして自殺をくわだてたか、君、分りますか? 生きたかったからなんだよ。自殺する以外にないほど、生きたかったんだよ。」

安部公房『飢餓同盟』

自分で自分を飛びこえることが、こんなに勇気のいることだなどとは、想像してみたこともなかった。追いつめられて、ぼくは自分をのぞきこんだ。人間というものは、芯までとどく地球のひびほどもある深さをもっていた。ぼくはぼくに目がくらんだ。 ※太字は出…

安部公房『飢餓同盟』

ぼくは自分の生涯を振向いてみると、こんな気がするのです。ながい夜のあと、やっと空が白みはじめ、夜が明けはじめる。さあ、朝がやってくるのだと思っていると、太陽はぼくの顔をみるなり逆もどりして、昼のかわりに、もう一度ながい夜がやってくる。

佐藤春夫『田園の憂鬱』

「俺は、仕舞いには彼処で首を縊(くく)りはしないか? 彼処では、何かが俺を招いている」

佐藤春夫『田園の憂鬱』

「俺は都会に対するノルタルジヤを起しているな?」

佐藤春夫『田園の憂鬱』

けれども、しかしすべての平和と幸福とは、短い人生の中にあって最も短い。それはちょうど、秋の日の障子の日向(ひなた)の上にふと影を落す鳥かげのようである。つと来てはつと消え去る。そうして鳥かげを見た刹那に不思議なさびしさが湧く。 ※太字は出典で…

佐藤春夫『田園の憂鬱』

ずっと南方の或る半島の突端に生れた彼は、荒い海と嶮しい山とが激しく咬み合って、その間で人間が微小にしかし賢明に生きている一小市街の傍を、大きな急流の川が、その上に筏を長々と浮べさせて押合いながら荒々しい海の方へ犇(ひしめ)き合って流れてゆく…

佐藤春夫『田園の憂鬱』

その家が、今、彼の目の前へ現れて来た。

幸田文「象」

実際を話してもらうのは宝である。

幸田文「先生」

私にも学校の先生のほかに、幾人かの先生のお世話にもなり、また願わないで教えてもらった師もたくさんある。ふと読んだ本、行きずりに見てはっと合点された光景等々、何人の師に逢っているかと思うときうなだれて感謝する。そのなかで大きな師が一人いる。 …

幸田文「まぜずし」

偶然は人物の目方を量る秤である。

幸田文「そこにある」

「そこにある」というのは有難いことだとおもう。特別な勉学の下地がなくても、じっと見ていれば、きっと何かを教えてもらえる。

幸田文「そこにある」

猫一匹飼えばその猫をよりどころにし、水仙一株買えばその水仙をたよりにして、ただじっと静かにしていればいいのである。ひとりでに猫も水仙もなにかを教えてくれる。ものを知ろうとし、わかろうとすれば、月謝を払ってお辞儀をして頼んでも、教えてもらえ…

幸田文「みち」

どんな小さな行為でも、行為に疲労はつきものだが、はじめに一歩を踏みだした人は、もっと大きい疲労を仕払う。そしてかすかな足跡がのこる。まず行って、そのあとが道になるのだから、道は大勢の行った人の疲労をもって贖(あがな)われたものと言っていいか…

中野重治『鷗外 その側面』

わたしは、鷗外の力を相当に借りて育ったあたらしい日本語が、日本人の言語表現にかなり広い場所をあたえたと思います。日本人の言語表現は、彼の力に相当によってヨリ大きな行動半径を持つことができた。しかしこれは、同時に、日本人の言語表現をしばるも…

中野重治『鷗外 その側面』

その点からいうと、二葉亭のこれらの翻訳は、たちまち流布して熱情的に読まれた点では「即興詩人」にいくらか劣り、しかし、たんに読者・愛誦者としてでなく文学者として進んで行こうとする人びとに内面的新しさを目ざました点では、「即興詩人」に勝(まさ…

中野重治『鷗外 その側面』

「即興詩人」は非常に大きな影響を文学読者、とくに青年たちに与えたけれども、そこから日本近代文学の何かの主流といえるものは生れなかった。「あひびき」、「めぐりあひ」は同じく大きな影響をあたえつつ、そこから一つの日本文学の流れ、日本自然主義の…