2011-08-01から1ヶ月間の記事一覧

ノーマン・メイラー『鹿の園』(山西英一 訳)

人の文体は、部分的には、その人が他の人びとをどう考えるかということを現わすものであり、他の人びとに自分を畏敬させたいと思っているのか、それとも自分を対等者として考えてもらいたいと思っているのか、を語っている

ノーマン・メイラー『鹿の園』(山西英一 訳)

人生とは、感傷にたいする闘争だ。

ノーマン・メイラー『鹿の園』(山西英一 訳)

ぼくは、孤独の楽しみを思い出していた。そして、孤独がつらいものであるとすれば、恋だってやっぱりそうだ、と考えた。

トルーマン・カポーティ『草の竪琴』(大澤薫 訳)

この道、この樹(き)。その姿をしっかりと胸に刻みつけようと、僕は目を閉じた。再び帰ることはあるまい。再びこの道を歩むことも、この樹を夢みることもあるまい。この道やこの樹が僕を引き戻してくれるまでは。

トルーマン・カポーティ『草の竪琴』(大澤薫 訳)

「ねえ独りっきりでいるには長すぎるわね、一生涯というのは」

トルーマン・カポーティ『草の竪琴』(大澤薫 訳)

「しかし、実際は、世界でたった一人の人というのは、十二の異なった顔をして、百もの異なった道を行く一人の人なのだ」

トルーマン・カポーティ『草の竪琴』(大澤薫 訳)

「自分の立場を守るためには、自分の置かれている立場を知る必要がある。これは基本的な原則でね。われわれを結びつけている共通点は何か。トラブルだ」

プラトン『パイドン』(岩田靖夫 訳)

「君たちは君たち自身を配慮してくれればよいのだ」

プラトン『パイドン』(岩田靖夫 訳)

「言論嫌いにならないようにしよう、ということだ。ちょうど、ある人々が人間嫌いになるように。というのは、言論を嫌うよりもより大きな災いを人が蒙ることはありえないからである。言論嫌いと人間嫌いとは同じような仕方で生じてくる。つまり、人間嫌いが…

プラトン『パイドン』(岩田靖夫 訳)

「正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。そして、死んでいることは、かれらにとっては、誰にもまして、少しも恐ろしくないのである」

プラトン『パイドン』(岩田靖夫 訳)

「すなわち、本当に哲学にたずさわっている限りの人々は、ただひたすらに死ぬこと、そして死んだ状態にあること、以外のなにごとをも実践しないのだが、このことに恐らくは他の人々は気づいてはいないのだ」

プラトン『パイドン』(岩田靖夫 訳)

「むしろ、僕は、死者たちには何かが有る、という善い希望をもっている。しかも、古い言い伝えにあるように、悪い人々にとってよりは、善い人々にとっては遥かに善い何かが待っているのだ、と」

プラトン『パイドン』(岩田靖夫 訳)

「だが、おそらく、君には驚くべきことに思われるだろう。人間にとって生きることよりは死ぬことの方がより善いということだけが、他のすべてのこととは違って、例外なしに無条件的であり、他のものごとの場合のように、ある時ある人には、という条件がけっ…

ラッセル『ラッセル 教育論』(安藤貞雄 訳)

子供は無力な間は母親を必要とする、それだけで十分な反応なのだ。

ラッセル『ラッセル 教育論』(安藤貞雄 訳)

しかし、反応を求めるのは、親の愛の本質ではない。素朴な自然のままの親の本能は、子供に対して、自分の身体の外部に現れた部分に対するのと同じような感情をいだくものである。自分の足の親指がけがをしていれば、あなたは自己愛から手当てをするものの、…

ラッセル『ラッセル 教育論』(安藤貞雄 訳)

はにかみは、困った形の臆病である。

ラッセル『ラッセル 教育論』(安藤貞雄 訳)

親は、誤りから学んでいく。子供が大きくなってはじめて、どう教育すればよかったかに気づくのである。

ラッセル『ラッセル 教育論』(安藤貞雄 訳)

生涯を通じて、努力への大きな刺激となるのは、最初の困難を切り抜けて成功した経験である。その困難は、勇気をくじくほど大きくてはいけないし、努力への刺激にならないほど小さくてもいけない。生まれてから死ぬまで、これが根本的な原則である。私たちは…

ラッセル『ラッセル 教育論』(安藤貞雄 訳)

教師は、子供を国家や教会よりも愛さなければならない。そうでなければ、理想的な教師ではない。

チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(柴田元幸 訳)

なんだか物足りない気分だ。正直言って、何もかも嫌気がさしてきた。俺はどこへも進んじゃいないし、世界全部がそうだ。俺たちみんな、ぶらぶらしながら死ぬのを待ってるだけだ。それまでのすきまを埋めようと、あれこれしょうもないことをやっている。しょ…

チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(柴田元幸 訳)

いつも誰かが人の一日を台なしにしようとしている。下手すりゃこっちの一生を台なしにしようとする奴だっていかねない。

チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(柴田元幸 訳)

人間なんて地面一センチ一センチを確保しようと苦労するために生まれてくる。苦労するために生まれ、死ぬために生まれる。

チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(柴田元幸 訳)

俺の目は青く、靴は古く、誰も俺を愛していない。だけど俺にはすべきことがある。

チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(柴田元幸 訳)

俺はいつだって女の脚に目がないのだ。生まれてまず見たのも女の脚だった。まああのときは、そこから出ようとしてたわけだけど。それ以来ずっと、入ろうとしてきたが、たいていひどくツキがなかった。

ソール・ベロー『この日をつかめ』(大浦暁生 訳)

ぼくは生きようとするあまり、生きるための努力をやりすぎている。

ソール・ベロー『この日をつかめ』(大浦暁生 訳)

そうだ、苦しみだけが人びとの確実に手にすることのできる人生なのだ。もし苦しみをすてれば、もう何も残らないのではないかと心配になるだろう。

ソール・ベロー『この日をつかめ』(大浦暁生 訳)

「苦しみと結婚するな、という言葉をさしあげよう。なかには苦しみと結婚している人もあるんだ。苦しみと結婚して、ちょうど夫婦のようにいっしょに寝たり食べたりしている。もし喜びと交わりを持てば不義をおかすことになると思っているんだ」

ソール・ベロー『この日をつかめ』(大浦暁生 訳)

もしかすると、あやまちをおかすことが自分の人生の目的そのもの、自分がここに存在していることの本質を表わすものかもしれない。あるいはまた自分は、あやまちをおかし、そのあやまちのためにこの地上で苦しむ運命にあるのかもしれない。

ソール・ベロー『この日をつかめ』(大浦暁生 訳)

「おまえは自分のかかえている問題を大げさに考えすぎるよ」

リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』(藤本和子 訳)

「キャンプして、鱒釣りやるんだ」と隣のスツールの男がいった。「すると、生まれてこなかった子どもたちの名前を思い出すよ」