チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

メドヴェージェンコ ソーリンさんは、タバコをやめるべきでしょうな。
ソーリン くだらん。
ドーリン いや、くだらんどころじゃない。酒とタバコは、個性を失わせますよ。シガー一本、ウオトカ一杯やったあとのあなたは、もはやソーリン氏ではなくて、ソーリン氏プラス誰かしら、なんです。自我がだんだんぼやけて、あなたは自分に対して、あたかも第三者――つまり〝彼〟に対するような態度になるわけです。
ソーリン (笑って)あんたは勝手に理屈をならべるがいいさ。人生の盛りを楽しんだ人だからね。ところが僕はどうだ? 司法省に二十八年も勤めはしたが、まだ生活をしたことがない、何一つ味わったことがない、早い話がね。だからさ、生きたくって堪らないのは、わかりきった話じゃないですか。あんたは腹がいっぱいで、泰然と構えていなさる。それで哲学に趣味をもちなさる。ところが僕は、生きたいものだから、夕食にシェリー〔酒〕をやったり、シガーをふかしたり、とまあいった次第でさ。それだけの事ですよ。
ドールン 命というものは、もっと大事に扱うものです。六十になって療治をしたり、若い時の楽しみが足りなかったと悔んだりするのは、失礼ながら軽率というものですよ。