宮本輝「途中下車」

 いまから十三年前、私は友人と二人して、ある私立大学を受験するため上京した。というより、上京するため確かに東京行きの列車に乗ったのである。世の受験生と同様、私たちもまた幾分の不安と心細さを抱いて、窓外の景色を眺めていた。そんな気持ちを和めようとして、自然に口数だけは多くなっていった。ところが、京都から乗り込んできたひとりの女子高生が私たちの隣の席に座ったことで様相は一変した。滅多にお目にかかれないほどの美人だったからである。私も友人も何となく態度が落ちつかなくなり、口数も減っていった。友人が意を決してその女子高生に話しかけたのは静岡を過ぎてからであった。
 彼女は京都の大学を受験して、伊豆の大仁(おおひと)に帰る途中だった。友人はそっと私に耳打ちした。
伊豆の踊り子やなァ」
 なぜ踊り子なのか判らなかったが、私は、うんうんとうなずき返した。彼女もだんだんとうちとけてきて、三人が無事に受験に成功したら、再びどこかで逢ってお祝いをしようなどと言いだした。そして私たちの心をさんざん乱したまま、艶然たる微笑を残して三島で降りてしまった。
「俺、もう東京の大学なんかやめにして、京都の大学を受けよかなァ……」
 とまんざら冗談でもなさそうに友人は呟いた。
「俺もさっきから考えてたんやけど、ことしは受験しても多分落ちると思うわ。一年浪人して、じっくり実力をつけて、来年にそなえたほうが賢いでェ」
 私もまた本気でそう言った。話はあっさり決まった。私たちは親からもらった東京での宿泊費を伊豆の旅にまわすことにして、そのまま熱海で降りてしまったのだった。何とも親不孝な息子であった。そしてこれが私の人生における最初の途中下車であった。私たちはいい気分で伊豆の温泉につかりながら、大仁のどこかにいるであろう美しい女子高生を思った。住所も電話番号も教えてもらっていたが、私たちはその紙きれを見つめるだけで何もしなかった。三日後、いかにも試験を受けてきたような顔をして家に帰った。
 それから半年たった頃、友人の父が死んだ。彼は家業の運送店を継ぐために、進学を断念した。
 私はといえば、受験勉強などそっちのけで、小説ばかり読みあさっていた。だが二人の心の中から、列車で知り合った女子高生の面影は消えなかった。私たちは逢うとその話ばかりしていた。彼女が京都の大学に受かったのかどうか気になって仕方がなかった。ある日、ジャンケンで負けたほうが、彼女の実家に電話をかけようということになった。私が負けて、ダイヤルを回すと、ちょうど何かの用事で京都から帰って来ていた彼女が出てきた。無事試験に合格し、丸太町の親類の家に下宿しているのだという。
「ところで、あなた、二人のうちのどっち?」
 と彼女が訊いたので、私はほんの冗談のつもりで、友人のほうの名を言った。しばらく考えてから彼女はこう囁いた。
「逢うのなら、あなたと二人だけで逢いたいな」
 私は黙りこくったまま、じっと電話をにぎりしめていた。そしてそのまま電話を切った。もっとうまい方法があった筈なのに、十八歳の私は打ちひしがれて、ほかにどうしていいのか判らなかったのである。
「なあ、どうやった? どない言うとった?」
 友人は目を輝かせて何度も訊いた。私は嘘をついた。彼女は受験に失敗して勤めに出ている、もう電話などしないで欲しい、そう言ってガチャンと電話を切られたと説明した。
「ふうん、見事にふられたなァ」
 友人はペロリと舌を出して笑った。
 このことは、いつまでも私の中から消えなかった。生まれて初めての失恋が、私の心に傷を残したというのではない。私は自分のついてきた数多くの嘘の中で、この嘘だけを決して自分でも許すことができなかった。私がいまそれを文章にできるのは、にっくき恋敵であるその友が、交通事故で死んでからもう十年もたったからである。