石川淳「佳人」

 わたしは……或る老女のことから書き始めるつもりでゐたのだが、いざとなると老女の姿が前面に浮んで来る代りに、わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口ででもあるかのやうにわたしと云ふ溜り水が際限もなく溢れ出さうな気がするのは一応わたしが自分のことではち切れさうになつてゐるからだと思はれもするけれど、実は第一行から意志の押しがきかないほどおよそ意志などのない混乱に陥つてゐる証拠かも知れないし、或は単に物を明確に現はさうとする努力をよくし得ないほど懶惰なのだと云ふことかも知れない。