瀧井孝作「無限抱擁」

 根津にある松子の母親の寓居(かりずまひ)で、元日の昼過ぎ、信一が其処の隣りやお向う等への年礼を済ました。信一は暮に松子と結婚し両人(ふたり)は一緒に根津の母の家に居て年を越した。松子は暮に感冒の熱を発し未だ気分がすぐれず簡単に曲げた髪で茶の間に坐つてゐた。
 母親のてつは御慶に自家(うち)の聟を遣りたがつて居たから、それで今戻つたかれに「有難う」と云つた。
 松子が尋(つい)で微笑んだ。
 「其麼(そんな)に起きて居ても善いの」
 左う云うて信一は火鉢の側にゆき、松子の体を案じて掌を額に当てると、松子が額をその方へ傾けて「熱はないのネ」と云うた。