大佛次郎「角兵衛獅子」

 先刻(さつき)の時雨は、今、東寺のあたりを降つてゐるらしい。五重の搭の影を暗くして、鉛色の雲が重く、その辺の空を蔽つてゐます。
 搭の向ふは、茶色に汚れた平野、その先の遠い山脈(やまなみ)にはもう灰色の靄が絡まつてゐます。鳩がかじかんで棲(とま)つてゐる寺の波風(はふ)に当つてゐた夕日の色も次第に力なく衰へて来てゐる。夜は間近いのでした。杉作も、それを知つてゐました。朝家を出る時食べたきりの腹ももとより空いてゐたのです。傍にゐる弟の新吉に何か口をきいてやるだけの元気もなく、此の寺の門へ時雨に追はれて駆込んでしやがんだ儘、雨が過ぎて行つた今も、立ち上らうともせず、ぼんやり力ない目で往来を見てゐるのでした。
 往来にはいろ/\な人が通ります。みんな、いそがしさうにせか/\歩いて行つて、この小さい角兵衛獅子の方へは目をくれようともしません。日は暮れようとしてゐますし、風は冷い、どんな大人だつて、暖い火のある自分の家(うち)が恋しいのでせう。

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