近松秋江「別れたる妻に送る手紙」

 拝啓
 お前――分れて了つたから、もう私がお前と呼び掛ける権利は無い。それのみならず、風の音信(たより)に聞けば、お前はもう疾(とつく)に嫁づいてゐるらしくもある。もしさうだとすれば、お前はもう取返しの附かぬ人の妻だ。その人にこんな手紙を上げるのは、道理(すじみち)から言つても私が間違つてゐる。けれど、私は、まだお前と呼ばずにはゐられない。どうぞ此の手紙だけではお前と呼ばしてくれ。また斯様(こん)な手紙を送つたと知れたなら大変だ。私はもう何うでも可いが、お前が、さぞ迷惑するであらうから申すまでもないが、読んで了つたら、直ぐ焼くなり、何うなりしてくれ。――お前が、私とは、つひ眼と鼻との間の同じ小石川区内にゐるとは知つてゐるけれど丁度今頃は何処に何うしてゐるやら少しも分らない。けれども私は斯うして其の後のことをお前に知らせたい。イヤ聞いて貰ひたい。お前の顔を見なくなつてから、やがて七月(ななつき)になる。