坪田譲治『風の中の子供』

 善太がお使から帰って来ると、玄関に子供の靴と女の下駄がぬいであった。
「三平らしいぞ。」
 思わず微笑が頰にのぼって来る。それでも真面目くさって、
「唯今。」
 と、上にあがって行く。座敷で、お母さんと鵜飼のおばさんとが話している。お辞儀をして側に坐る。「三平チャンは?」とききたいのだけれど、何故か、その言葉が出て来ない。立って、その辺を歩いて見る。茶の間にも、台所にも、奥の間にもいない。玄関の帽子掛けにチャンと三平の帽子があり、その下に背負いカバンも置いてある。聞かなくても、三平は帰っている。此度は外へ出て見る。柿の木の下へ行って見ると、そこにお母さんの大きな下駄がぬいである。三平がのぼっているのである。善太ものぼって行った。木の上で、二人は顔を合せた。ニコニコして見合ったのであるが、言葉が出て来ない。一週間ばかりしか別れていないのに、二人とも少しばかり恥しい。三平チャンとも言いにくいし、兄チャンとも呼びにくい。まして、三平が夢の中で子捕りにとられて、自分が泣いたなんてことは言おうにも言われない。三平とても同じである。然しいつ迄もニコニコしあっている訳にも行かない。三平は木をすべり始めた。巧にすべるのである。五六日でそんなにも上手になっている。無言で、その上手なところを三平はやってみせた。善太もそれにおとらず、上手にすべり下りた。善太が下りると、三平は登り始めた。登るのも上手である。二三度この木登り競技をやって、二人とも下に下り立った時、善太が思い切って呼んだ。
「やい、三平。」
「何だい。」
 この声と共に、二人は取り組んだのである。うれしさ、恥しさのやり場はこれ以外になかった。