プルースト『失われた時を求めて』「スワン家のほうへ」(井上究一郎 訳)

しかし、生活のいかにもとるに足らぬ事柄についての観点からしても、われわれは、たとえば契約した物品の明細書とか遺言書とかのように、各人がそれを見るだけでよくわかる、誰にとっても同一である、といったふうに物質的に構成された一個の全体ではなく、われわれの社会的人格は他人の思考によってつくられたものなのだ。「知った人に会う」とわれわれが呼んでいる非常に単純な行為にしても、ある点まで知的行為なのだ。会っている人の肉体的な外観に、われわれは自分がその人についてもっているすべての概念を注(つ)ぎこむ、したがってわれわれが思いえがく全体の相貌のなかには、それらの概念がたしかに最大の部分を占めることになる。そうした概念が、結局相手の人の頰にそれとそっくりなふくらみをつくり、その鼻にぴったりとくっつけた鼻筋を通してしまい、その声に、それがいわば振動する二つの透明な膜にすぎないかのように、さまざまなひびきのニュアンスを出させることになるのであって、その結果、われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。