森鷗外『渋江抽斎』

抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗るわたくしと相似ている。ただその相殊(こと)なる所は、古今時(とき)を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別(しゃべつ)がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なるヂレッタンチスムの境界(きょうがい)を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視て忸怩たらざることを得ない。