柄谷行人『探究I』

デカルトの「神」にかわって、共同主観性や社会的制度、あるいは共通感覚や集合無意識といったものがもちだされる。これらは、「私」を一般者につなぐためのさまざまな意匠にすぎない。これらが、「神」の代替物であり、またデカルトの論証と同じ循環論的困難をはらんでいることはいうまでもない。しかし、そのことに気づく者さえ少数である。