道元『正法眼蔵』

人の死ぬるのち、さらに生(しょう)とならず、しかあるを生の死になるといわざるは、仏法のさだまれるならいなり、このゆえに不生(ふしょう)という。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転(ぶってん)なり、このゆえに不滅という。生も一時(いちじ)のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとえば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもわず、春の夏となるといわぬなり。
〈解釈〉人は死んで後に、また再び生じてくることはない。そうであるから生が死になるのだと言わないのは、仏法(普遍の真実)においては決まりきった道理なのである。この事実を絶対の生(不生)と言う。また死においても、死が生になることがないのは、仏法の道理においては決まりきったこととして仏が説き示されているところである。この事実を絶対の滅(不滅)と言う。すなわち生の時は(死に対することなく)全体が生(しょう)きり、死の時も全体が死きりとしてそれぞれがそれぞれの位を尽くし切っているのである。これを時の様相である四季にたとえて言うならば、それは冬と春との時節のようなものである。春は、冬が春になったものと思わないし(冬はどこまでも冬であり、春は冬に対せずどこまでも春そのものである)、同様に夏は春が夏になったものと言わぬのと同じである。