夏目漱石「英文学形式論」

 さもあれ、吾々が彼等の持つ歴史的趣味から自由であると云ふことは、一方から見れば幸福であるが、他方から見れば不幸である。一方に束縛を持ない為、他方に彼等と同じ趣味を共有する権利を失つて居る。それで、吾々が英文の形式を取捨するに当つて第一に重きをなす要因(ファクタア)は其形式が代表する思想(アイデア)即ち内容(コンテンツ)である。而して、其思想を表し出すに二ヶ以上の形式ある場合には、種々の点より決定するけれど、先づ一ツの形式が他のものよりも、より善く理解力に訴へるか否かで定める。此も同等である場合には、一方が他のものよりも、斬新であるとか、力があるとか、又は優美であるとか、表明的(エキスプレッスィブ)であるとか云ふ根拠(グラウンド)で批判する。要するに全然普遍のものを根拠として批評するか、さもなければ、或程度まで外国人として解し得る性質(クオリティー)が客観的(オブジェクティーブ)に存在する場合に、此を批評の要因(ファクタア)と定めるのである。然し以上の標準のみならば評価の場合左程の困難を感ずることはないが、爰(ここ)に又偶然(チァンス)の聯想(アッソシエーション)よりして、或形式に吾々が愛着する趣味(テースト)で以て取捨を決する場合がある。そしてその場合が存外に多いのである。此が外国文学を鑑賞するに困難なる所以である。思想その者に好悪を表して取捨を決することは当然で不思議はない。又思想を表はす形式が解しにくいから捨てる、斬新だから取ると云ふのも当然である。然るに思想も形式も同価値で、理屈の付く諸点は悉く同等であつて、しかも甲を好み乙を嫌ふと云ふ時、その時の好悪は偶然の因習から来るのである。従つて同様なる因習を経た人々でなければ、取捨好悪することは出来ない。此取捨好悪が出来なければ、外国文学の形式を味ふ上に大なる損失となる訳である。