森鷗外「ロビンソン・クルソオ」

譯者。さうですかね。僕だつて日本の國體は類のない、結構な國體だと思つてゐます。租税は甘んじて納めてゐます。一年志願兵を濟ませて、今でも豫備役になつてゐます。召集せられれば、いつでも出て行きます。親は大切にしてゐます。社會主義には反對です。無政府主義には大反對です。併し飯を食ふのは、租税を納める爲めに働かれるやうに體を養ふのだ、戰爭に出て働かれるやうに體を養ふのだと思つて食ふのではなくて、腹が減つた時旨いと思つて食ふのです。女を可哀がるのは子を生ませて兵隊にする爲めだ、先祖を祀らせる爲めだと思つて可哀がるのではなくて、只可哀いから可哀がるのです。要するに自分の個人としての價値を忘れることは出來ません。僕は拙いながら文藝を遣つてゐますが、只専心に自分の藝術家としての良心を滿足させようと思つて、作をしてゐます。それは書いた本が售れて金が儲かつたから納税は甘んじてしませう。併しそんな事は、作をする時考へてはゐません。腹が減つて飯を食ふ時でも、女を可哀がる時でも、絶えず國家との關係を思つてしてゐるのではありません。勿論思慮が國家の事に及ぶことはあります。併しそれが不斷ではありません。それですから、あなたの説で見ると、僕はどうしても個人本位とか個人主義とか云はれることになります。その癖僕は利己主義は大嫌ひで、献身的行為が好きですが。