ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』(熊沢誠、山田潤 訳)

 順応派の生徒たちはといえば、彼らは「熟練を要する」職種に迎えられるのが常である。けれども、これといって独自な文化で防備するわけでもなく、気晴らしも知らず、状況解読の習慣化された能力にも乏しいまま平々凡々たる職場の日常に入るとき、経営側の目に危なっかしく映るのはむしろ学校で順応的であった少年である。職場のならわしに異和をもたらしかねないのは彼らであるようにみえる。こういう少年は、対等平等な個人という教義を、まだいわば型通りに信じこんでいるところがある。対等平等の条件下で能力に応じて報いられるという個人主義は、学校がまずなんらの限定もつけずに伝授したものだが、それを職場にまで持ちこむのだ。こうして、なるほど表だった反抗はみせないし、慣行を重んじる職制に不遜な態度で接することもないかわりに、〈野郎ども〉の反抗的な態度の裏面にあったような、不変の権力関係にたいする暗黙の了解もまた、彼らには存在しない。〈やつらとおれたち〉のあいだの不動の境界線を彼らは認めない。こういう若い労働者は、労働に真の満足を求めようとするし、現職からの上向脱出の可能性に賭けようとする。権力の配分にたとえ不平等があるとしても、それは最終的に個人の能力の差のみに起因するのでなければならないと彼らは考える。しかし、このような期待ににもかかわらず、職場の日常はうんざりすることばかり多い。かといって同僚との気晴らしに救いを求めることもしないので、順応派の少年は取りつくしまのない「あつかいにくい男」になってしまう。実際に、熟練を要しない手労働の職場では、そういうことを考慮して、〈耳穴っ子〉よりも〈野郎ども〉を好んで採用する傾向がある。〈野郎ども〉の「粗暴さ」の奥には、立場をわきまえた現実主義があるからである。彼らは、大勢の仲間と歩調を合わせて大過なく一日をやりすごす。つまり、その日の生産をやりとげてくれる。与えられた職務の内容に「さしでがましい口」をはさむこともないし、職業生活の将来の展望についてくよくよすることもない。なるほど〈野郎ども〉にも「彼らの言い分」があり、「言い分を通す」気がまえもあるけれども、〈おれたち〉を〈やつら〉の階層に押し上げねじ込もうとはしない。そこのところが経営者の側に好ましく迎えられるのだ。〈野郎ども〉の側から見ても、職場は予想以上に居心地がいいし、学校が私的な立居ふるまいのほんのささいなことにでも干渉したのにくらべれば、職場の上司や監督者は個人にかかわることがらはおおらかに見すごしてくれる。そうであればこそ就職が、学校からの脱出の意味を帯び、職場への移行もいっそうなめらかになるのである。

   ※太字は出典では傍点