高橋和巳「孤立無援の思想」

 「内に省みて恥ずるところなければ、百万人といえども我ゆかん」という有名な言葉が孟子にあるけれども、百万人が前に向って歩きはじめているときにも、なおたった一人の者が顔を覆って泣くという状態もまた起りうる。最大多数の最大幸福を意志する政治は当然そうした脱落者を見すててゆく。――そしてこの時、情勢論を基礎にする政治と、非情勢論的作業、たとえば文学の差があらわに現れてくる。文学はその流派の中に、抽象的な観念主義や政治主義をも含むけれども、その出発点を個別者の感情においているゆえに、たとえそれが老婆の愚痴や少女の感傷であっても、それが個別的な真実性をもつ以上は、可能的な文学の考察対象となる。文学者は百万人の前の隊列の後尾に、何の理由あってかうずくまって泣く者のためにもあえて立ちどまるものなのである。