2011-01-01から1ヶ月間の記事一覧

尾辻克彦「冷蔵庫」

コーヒーの匂いがたちこめてくる。コーヒーというのは、あとで飲むじっさいの味よりも、この最初の匂いの方がおいしいと思う。匂いというのは期待の味である。触れられるものがすぐそばに近づいて来る、その期待のおいしさ。コーヒーの匂い、シチュウの匂い…

尾辻克彦「内部抗争」

もう本当に世の中にうんざりしている表情である。だけどこの世の中を逃げ出すわけにはいかないのである。だからこういう表情を作ってもちこたえている。これは胡桃子の自己防衛の表情なのである。ふつうの表情をしていたのでは自分の中がぐしゃぐしゃになっ…

尾辻克彦「虫の墓場」

「偶然っていうのも、不思議なんだよね」 「そうだろう。お父さんもそう思うの。何が不思議かっていうとね。一つ一つが偶然のことでもね、それをたくさん集めて眺めてみると、その一つ一つが偶然ではなくなってしまう。だけどそれが何故そうなるのかわからな…

鷲田清一「場所の記憶を明け渡す」(百々俊二『大阪』所収)

要するに、写真家は撮るとき、もはや〈わたし〉のなかを探るのではなく、〈わたし〉の記憶の場所をいさぎよく他者に明け渡す。その場所を気前よく、いまそこにいるひとたちに委ねるのだ。

鷲田清一「場所の記憶を明け渡す」(百々俊二『大阪』所収)

そう、記憶は呼び戻されるごとにカタリなおされる。

鷲田清一「場所の記憶を明け渡す」(百々俊二『大阪』所収)

けれども、記憶というものは夢と、そうかんたんに区別がつくものではない。記憶においては、かくあったという事実と、かくありたいと、人知れずどころかおのれも知らずに思ってきた事実とが、たがいを映しあい、溶かしあうのがつねだからだ。記憶にはだから…

大江健三郎『日本の「私」からの手紙』

小説家はある時代を生きる際に――といっても、すべての人がその時代を生きるのですが――、とくに時代をいかにも個人的に生きて、その個人としての自分のことを書いているのです。それでいてしかも、どうも時代そのものを書くものではないか? そしてついには時…

ギュンター・グラス「ギュンター・グラスとの往復書簡」(高本研一 訳)(大江健三郎『日本の「私」からの手紙』所収)

記憶は私たちの職業の一部です、それは私たちに予め定められた紀律です。

大江健三郎『日本の「私」からの手紙』

いうまでもなく、忘却が正しい道であるはずはありません。ミラン・クンデラのいうとおり、《人間の権力に対する闘いは、忘却に対する記憶の闘いである》のです。権力があらゆる人間を操作して、忘却をひきおこす、とまでいうつもりはありません。しかし忘却…

安部公房『他人の顔』

人が集まるから、雑踏になるのではなく、雑踏があるから、人が集まってくるのだ。

安部公房『他人の顔』

それに道行く人々は、互いに他人であるはずだのに、まるで有機化合物のように、しっかり鎖をつくって、割り込む隙など何処にもない。検定済みの顔を持っているというだけのことが、そうも強い靱帯(じんたい)になりうるのだろうか。おまけに、着ているものま…

石川淳「佳人」

重要なことは楽に死ぬことではなく悠悠と死ぬことであり、死を怖れる怖れないの屈托よりもわたしはむしろ怖れつつ死ねばよかった。

石川淳「佳人」

わたしは……ある老女のことから書きはじめるつもりでいたのだが、いざとなると老女の姿が浮んで来る代りに、わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口ででもあるかのようにわたしという溜り水が際限もなくあふれ出そうな気がするのは一応わたしが自分のことでは…

上田義彦『at Home』

悲しみは忘却のかなたへ、ほほ笑みは写真の中へ。

井伏鱒二 他『井伏鱒二対談集』

安岡(章太郎) あの十二月八日は月曜日のことなんですよね。僕も最近気が付いた。アメリカでは、日曜日なんだ。ハワイが十二月七日に襲撃された、お祈りしている最中にね。だからジャップは汚いと、こう言うわけだけど。

井伏鱒二 他『井伏鱒二対談集』

井伏 そのとき、あんたがこっそりうしろへ行って、志賀さんの匂いを嗅いだとか……。 永井(龍男) 志賀さんが座敷を通るたびに、志賀さんってどんな匂いがするのかと思って……そういうもんだったなあ、志賀さんって。

筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』

「挫折とは、便利なことばですね」おれはわざと大声で彼にいった。「挫折ということばが、中途でだめになるとか、くじけ折れるとかいう以上の複雑らしげ高級らしげなニュアンスを持ちはじめたのは、いったいいつごろの誤った情報が原因なのでしょうね。挫折…

筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』

さらに考えれば黒幕とは必ずしも人物であることを必要としないのであって、あるいはそれは集合意識とか、時代とか、環境とかいったものであってもいいのだ。 ※太字は出典では傍点

堀田善衛『広場の孤独』

雨ニモ負ケテ 風ニモ負ケテ アチラニ気兼ネシ コチラニ気兼ネシ ペロペロベンガコウ云エバハイト云イ ベロベロベンガアア云エバハイト云イ アッチヘウロウロ コッチヘウロウロ ソノウチ進退谷(きわ)マッテ 窮ソ猫ヲハム勢イデトビダシテユキ オヒゲニサワッ…

堀田善衛『広場の孤独』

いずれにもせよ、彼はいつの間にか〈われわれ〉と複数で考えていた。しかし、考えてみればそこに、戦争中の国家主義民族主義の残滓が、名を変え色どりを変えてこびりついていないとは、断言は出来ない。ここでもけじめはぼやけていた。しかも見る人によって…

クリスチャン・コジョル「ひとに寄り添って――あるいは生と死の境の世界」(青山勝 訳)(マリオ・ジャコメッリ『MARIO GIACOMELLI 黒と白の往還の果てに』所収)

一般論として風景写真とは、先にそこを歩いたひとの後追いの提案である。その風景を先に見たひとが、写真を見る者に対して彼とともにその空間を横断し、発見し、あるいは自らのものとして所有することを誘いかけるのだ。ジャコメッリの場合、ある意味では事…

松浦理英子『ポケット・フェティッシュ』

母親に限らず大人たちは子供を可愛がるふりをして、あるいは可愛がっているつもりで実は随分ひどいこともやっているのではないか、と思う。

松浦理英子『ポケット・フェティッシュ』

母性と子供を〈信仰〉するこの現代社会にあってはどうかしているのかも知れない私は、かねてから女の子供好きには二タイプあって、一方は〈小さきものみなうつくし〉と感ずる正真正銘の子供好き、もう一方は物扱いも含めて玩弄できるから子供が好きだという…

ロベルタ・ヴァルトルタ「身体としての風景」(岡本太郎 訳)(マリオ・ジャコメッリ『MARIO GIACOMELLI 黒と白の往還の果てに』所収)

かねてから私は、われわれの初めての風景の知覚は、そもそも母胎内に宿っているあいだにかたち作られるのではないかと思っている――丘の曲線、平野の規則的な進行、山の稜線、川の流れ、海、空、それらのすべては、すでにその体液と血流の原体験の内に存在す…

武満徹、大江健三郎『オペラをつくる』

武満 かなり根本的な問題に立ち入ってしまいましたが、どうしてもキリスト教における神の問題につきあたってしまいます。つまり神という観念を極端に純化していって、絶対的な神という存在を人間に対置する。そうしたヨーロッパ的な精神風土が、大きなシンフ…

武満徹、大江健三郎『オペラをつくる』

武満 じつは言葉の起源は歌なので、歌うということを検証したときに言葉が出てくる。言葉のあとに歌がくるのではなく、歌というものはつねにあって、それがいろいろな歌のかたちとして、言葉として顕われる。それは小説であったり、また、詩や戯曲だったりす…