2011-01-01から1ヶ月間の記事一覧

津島佑子『快楽の本棚』

人間は不思議なことに、どんな時代でも「物語」を自分の存在に求めているし、「物語」によって、相手を理解しようとし、社会に生きようとする。そういう生き物が、人間という存在なのだ。

津島佑子『快楽の本棚』

言葉をそれだけ、私たちは必要としている存在として生きてしまっている。それが幸せなことか、不幸なことか、少なくとも、言葉からまだ自由だった子ども時代に、あるいは、動物、植物に、私たちがつねに深いなぐさめを感じるのは、そこに理由があるにちがい…

津島佑子『快楽の本棚』

そして私が、とりわけ不思議に感じる事実は、人というもの、どうして壮年になっても、老年になっても、子ども時代の記憶に救いを感じつづけて生きるのだろうかということなのだ。

津島佑子『快楽の本棚』

このようにして本は待ちつづけてくれる

蜷川実花『noir』

目を凝らせば鬱陶しい程溢れかえっている生とか死とか 黒の中には色が溢れ、色の中に黒は潜む 私達が食するものはあらゆるものの屍 花は枯れながらも咲き乱れ 愛玩動物達は今日も檻の中 新しい生命はひたすら生まれまくり 一日一日死に向かって生き続ける 眩…

太宰治「チャンス」

ただもう「ふとした事」で恋愛が成立するものとしたら、それは実に卑猥な世相になってしまうであろう。恋愛は意志に依るべきである。恋愛チャンス説は、淫乱に近い。それではもう一つの、何のチャンスも無かったのに、十年間の恋をし続け得た経験とはどんな…

太宰治「チャンス」

人生はチャンスだ。結婚もチャンスだ。恋愛もチャンスだ。と、したり顔して教える苦労人が多いけれども、私は、そうでないと思う。私は別段、れいの唯物論的弁証法に媚びるわけではないが、少くとも恋愛は、チャンスでないと思う。私はそれを、意志だと思う。

太宰治「デカダン抗議」

私は、たしかにかの理想主義者にちがいない。嘲(あざわら)うことのできる者は、嘲うがよい。

安岡章太郎「夕陽の河岸」

孤独とは、つまり年とって周囲に自分と同じ年頃の者が少くなり、話し相手もいなくなるといったことだろう。しかしもっと端的にいうと、それは自分自身が内面から痩せて稀薄になってくるのを自覚させられることではないか――。

安岡章太郎「朝の散歩」

なつかしいという情緒の底には、諦念ないしは断念がある。つまり、過ぎ去った時間や歳月は二度とかえってくることはない、そういうところから、なつかしさが生れる――。

安岡章太郎「虫の声」

そのN君によれば、紀伊半島というのは、人体にたとえていえば本州の下股、陸地や平地の恥部のような存在であって、有史以来、有間皇子、南朝朝廷、天誅組、それに大逆事件の紀州グループなど、数多くの謀叛人や皇位継承の敗者などがかくれ棲み、地理的にも突…

高橋源一郎『文学なんかこわくない』

なぜなら、文学とは、結局のところ、その国語によって、その国語に拘束された空間を超えていこうという試みだからだ。文学だけがそれを可能にする。そして、その試みの中にしか、文学の根拠はないのである。

高橋源一郎『文学なんかこわくない』

もし、現実の存在の方が虚構より、実際的というか現実的というかとにかくそういう頼りがいのあるものであるなら、苦しみ悩む人はどうしたって現実のなにかを見たり触ったりするはずである。 にもかかわらず、昔から死ぬか生きるかの瀬戸際で、人は部屋に閉じ…

高橋源一郎『文学なんかこわくない』

「生きる」ことに希望はない。おそらく、「生き直す」ことにだけ人は希望を感じる。

高橋源一郎『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』

話し終えたことにわたしたちは満足している。だから、今度は黙っていることを楽しむのだ。

高橋源一郎『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』

それは猥褻ではない。性的ですらない。 それは、まるでヒッチコックの横顔のように寂しい。

高橋源一郎『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』

そしてわたしが話す番になった。

村上春樹「今は亡き王女のための」

「それから人生というものは本質的に平凡なものだと考えています。仕事も結婚生活も家庭も、もしそこに何かの面白みがあるとしたら、それは平凡であることの面白みです。僕はそう思います」

村上春樹「今は亡き王女のための」

甘やかされたり小遣い銭を与えられたりという程度のことは子供がスポイルされるための決定的な要因ではない。いちばん重要なことはまわりの大人たちの成熟し屈曲した様々な種類の感情の放射から子供を守る責任を誰がひきうけるかというところにある。誰もが…

村上春樹「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」

自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少くとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は…

中野正貴『東京窓景 TOKYO WINDOWS』

日頃我々は一日の大半を部屋という囲われた空間の中で過ごし、都市の風景を内側から見つめている。それは自宅の窓からであったり、移動中の車や電車の窓からであったり、職場の窓からだったりする。 風景を映画館のスクリーンやハイヴィジョンテレビの大画面…

村上春樹『やがて哀しき外国語』

これは僕の個人的な意見にすぎないのだけれど、自分が一度何か圧倒的な経験をしてしまうと、それが圧倒的であればあるほど、それを具体的に文章化する過程において人は何か激しい無力感のようなものにからめとられてしまうのではないだろうか。

村上春樹『やがて哀しき外国語』

でも、居直るわけではないのだけれど、いったい誰の人生が間違っていないのだろう? お前の人生は間違っているとかいないとか、誰に確信を持って断言することができるのだろう?

村上春樹『やがて哀しき外国語』

情報が咀嚼に先行し、感覚が認識に先行し、批評が創造に先行している。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。僕はそういう先端的波乗り競争にはもともとあまり関ってこなかった人間だけれど、でもそういう風に神経症的に生きている人々の姿を遠…

山田太一『いつもの雑踏 いつもの場所で』

ある年代の精神にとっては、浅薄通俗が水や空気のように必要なものであり、それを絶つと成長は活力を失う。

山田太一『いつもの雑踏 いつもの場所で』

この世には凡人の見当のつかぬ悪も善もあり、そして才能もあるのだという「おびえ」を持たなければ、見損うものが多いというのが私の持論である。

山田太一『いつもの雑踏 いつもの場所で』

四十代のサラリーマンがふたり、風を切って早足で歩いてくる。なにをしゃべっているのかと、すれちがう時耳を向けると、 「正直いってね、あそこのめんたい(明太子)食うまでは、××のが一番だと思ってたんですよね」 なんていっているのである。振りかえると…

徳冨蘆花『不如帰』

「ああつらい! つらい! もう――もう婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。――あああ!」

徳冨蘆花『不如帰』

「なに? すがすがしくも散る? 僕――わしはそう思うがね、花でも何でも日本人はあまり散るのを賞翫(しょうがん)するが、それも潔白でいいが、過ぎるとよくないね。戦争(いくさ)でも早く討死(うちじに)する方が負けだよ。も少し剛情にさ、執拗(しつこく)さ、…

徳冨蘆花『不如帰』

父ありというや。父はあり。愛する父はあり。さりながら家(うち)が世界の女の児(こ)には、五人の父より一人の母なり。