2011-11-11から1日間の記事一覧

蓮實重彦『反=日本語論』

しかも、醜く、貧しい日本語と遭遇することによってさえ、われわれは自分自身にふさわしい何かを発見できるのである。

蓮實重彦『反=日本語論』

だが、言葉というこの錯綜した矛盾と葛藤の場にとって、言語学も文学も、その活動のほんの一側面しか明らかにしえないのだという認識は失ってはなるまい。そこには、病理学的=政治的=文化的なさまざまな理由で、言葉がまとわねばならぬ虚言や自家撞着、あ…

蓮實重彦『反=日本語論』

人は、言語学など信じてはならぬように、文学など信じてはならない。言葉は、役人はいうに及ばず、言語学者や文学者の視線がとうてい捉えることの不可能な逸脱や畸型化を日々生きつつあるのだ。

蓮實重彦『反=日本語論』

重要な点は、言葉が規則でも規範でもないという事実だ。言葉は生きているなどと言えば粗雑な比喩の援用とそしられもしようが、少なくとも、言葉が真に言葉として機能している瞬間は、正しさとか美しさは言語的な場に浮上してはこない。 ※太字は出典では傍点

蓮實重彦『反=日本語論』

かりにそんなものがあっての話だが、現在のわが国には、正しく美しい日本語を、書き読み、話す機会を病理学的に、文化的に、政治的に奪われた人びとが少なからずいる。正しく美しい日本語を標榜する者たちは、彼らが口にしたり口にできなかったりする日本語…

蓮實重彦『反=日本語論』

人は、文学にそう単純に感激してしまってはならないし、とりわけ虚構にすぎない作品の一部に基いて論議を展開するような場合は、ことのほか現実的な視線を注がねばならないのだ。

蓮實重彦『反=日本語論』

自然の状態にある言語は乱れているのが当然であり、言葉をめぐって正確さが語られるとき、そこにはきまって政治的=経済的=社会的な葛藤が、無言のうちに話題とされているのだ。 ※太字は出典では傍点

蓮實重彦『反=日本語論』

人の名前の本質とは、決してその名の持ち主の自己同一性の中にあるのではなく、言葉として修得され、流通し、忘却されることの中にこそ存する ※太字は出典では傍点

蓮實重彦『反=日本語論』

われわれの周囲に裸の表層を露呈する言葉は、いま、この瞬間、美しさや醜さを超えた生なましい現実としてある

蓮實重彦『反=日本語論』

われわれが「文化」を語る場合に陥りがちなのは、どんな「文化」であれ必然的にはらみ持っているだろう負の局面、たとえば醜かったり、滑稽であったり、貧しかったり、愚かしく思われたりする局面を、一定の時がくれば常態に復するはずの一時的な錯誤、やが…