2015-08-01から1ヶ月間の記事一覧

中井正一『美学入門』

この線にそって、生まれてきたのがベルグソンの哲学、あるいは、ハイデッガーの哲学となってきたともいえるのである。 この時代の知識人は、多かれ少なかれ、ダダイズムのいうところの、ただ自分に向って、「いやだ、いやだ。」と駄々ッ子のように、かぶりを…

中井正一『美学入門』

「今」と「ここ」に生きていることを生き生きと自分にいいきかせうる自由な魂が、自分の中に姿を現わす時、初めて私たちは自然を見、人生を見、自分を見ることができるのである。そしてその時初めて、自分自身にめぐりあったともいえるのである。 かかる生き…

中井正一『美学入門』

私も、戦争に反対したというので、特高に引っ張られて、なぐられたり、なぐられるよりもっとひどい目にあった時、この世界に、論理の通らない世界のあること、この人民を守る国家機関の中に、論理がなく、かつ人民を苦しめることが、公然とゆるされているこ…

吉本隆明「現在に見る理想社会への道」(入澤美時『考える人びと――この一〇人の激しさが、思想だ』所収)

吉本――最近はそんな機会もあまりないけれども、一〇年かそこら前ぐらいまでは、外国の文学者や哲学者が来ると、対談してくれといわれてよく引っぱり出された。相手の力量が、すぐわかるんです。「コイツはすごいなあ」って思ったのは、フーコー一人だけです…

吉本隆明「現在に見る理想社会への道」(入澤美時『考える人びと――この一〇人の激しさが、思想だ』所収)

吉本――世間のご老人は、一番肝心でキツイことはいっていないのではないでしょうか。ご老人は、「老い」というものを、どんな人でも「なるほどそうか」って理解できるような二番手ぐらいのことか、世間ばなし程度の範囲でお喋り言しているんだ。そんなことが…

森繁哉「村のダンスから世界史へ」(入澤美時『考える人びと――この一〇人の激しさが、思想だ』所収)

森――少し外れるかもしれませんが、私は日本人の思考様式、行動様式の原型が、役所のなかにはあると思うんですよ。「私はこういう農業経営をしたいんだけれども、資金が足りない、どうしたらいいのか」ということを、役所に相談するとします。そこで役所では…

加藤典洋「私利私欲から世界という関係へ」(入澤美時『考える人びと――この一〇人の激しさが、思想だ』所収)

加藤――でもそういう若い連中とつき合っているうちに、何で新しい物事は、若い人間の経験の場所から出てくるのかということが何となくわかるようになったんです。二〇歳前後の人間は、思想的にも経験的にも財産を何ももっていない。そして、そのまま現実にぶ…

大西廣「絵の居場所から生成すること」(入澤美時『考える人びと――この一〇人の激しさが、思想だ』所収)

大西――僕はこう思いますね。さっきの延長ですが、今度は個々の人間が何かを美しいと思うか、思わないかという、いわゆる美意識というか、美的鑑賞能力みたいな問題として考えてみる。そうすると、美しいと思うのが二パーセントで、思わない、つまり意識にお…

大西廣「絵の居場所から生成すること」(入澤美時『考える人びと――この一〇人の激しさが、思想だ』所収)

大西――普通、近代芸術論のなかでは、表現する作者の構想がいろいろなものを生み出していくという、作者中心主義ですよね。 ……美術史も文学史も、「史」とつくものはみんなそうですね。 大西――だから、作者を時代順に論じていけば歴史になる、というふうにな…

網野善彦「日本という国号は変えられる」(入澤美時『考える人びと――この一〇人の激しさが、思想だ』所収)

……それほどまでに、律令国家ができ上がって以降の、天皇制の呪縛は大きかったってことでしょうか。 網野――呪縛といえるかどうかはわかりませんが、古代の「日本国」が強烈な国家意志をもっていたことは間違いないですね。それも支配者だけでなく、少なくとも…

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

こういう仕事じゃなくても、すべてがそうですよ。他者というのは自分を映す鏡なんだから、こちらが帳尻合わせをしようと思えば、向こうも帳尻合わせをしてくるし、ことらが表面だけでやろうと思えば向こうも表面だけで応えてくるし、こちらがなあなあで済ま…

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

人と関係するということはどういうことか、そして、人と関係するということはどれだけ自分の血を流さなきゃいけないか

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

ものを言うってことは、その人の世界に入っていくことだ。その人の世界に入るってことは、その人を理解することだ。自分の言った言葉がその人に届くために、自分が適当にものを言って人が応えてくれるわけはない。人を理解し、人に言葉を届けるには、自分も…

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

書くっていうことは、相手も傷つくかもしれないし、自分も傷つくことなんだよ。そんなふうに失礼かなって思ったら文章なんか書けないよ。本当に人間と人間が関係するときには、失礼かななんて思ったらダメなんだよ。その人のためにみんなが言ってるんだから…

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

文章を書くってことは自分を見つめ直すことだから、そうしたら、自分を一回壊さなきゃ。

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

相手の中に入っていくってことは、相手を理解するってことだよね。相手を理解するってことは、自分も相手に理解されるってことだよ。

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

表現するということは、取りも直さず自分が出てしまう。表現しなければ、なんかどこかがもやもやして、それ以上前に進めないという人が表現するわけです。もし表現しなくてもすめば、それに越したことはない。ふつうに何も書かないで過ごしていればいい。表…

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

こういうことを言ったらあいつ怒るだろうな、と思うようなことを、いつ言うか。その人にはもともといいところがいっぱいあるわけだから、最初にそのいいところをたくさん褒めておく。そのうえで、でも、ここはこうしなくちゃいけないし、「これはひどいよ」…

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

人には触れられたくないことがある。「ここはちょっと書くのが照れくさいな」とか、「これを書くと恥ずかしいな」とか思って、やめているものがいくつもあるんですよ。だけど、そこを書いてもらわないといいものはできないんですよね。相手の持っているあん…

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

ぼくらはプロというか仕事でやっていると、実際にはボツ原稿というのはあるんですよ。何度持ってきても「ボツ」「ボツ」「ボツ」というのはあるわけですよ。ボツになった原稿が溜まることはあるんです。でも、あるときそれがポーンと化けるということもある…

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

日常の些細なことに感動することが、生きるということだと思うんです。世の中に出ていったりみんなに注目されたりなんてことは、じつはそれほどたいしたことじゃなくて、もっともっと日常の小さなことに感謝とか感動を見つけて生きていくということのほうが…

『見城徹 編集者 魂の戦士――別冊 課外授業 ようこそ先輩』

編集するということは、人と人とが関係する、人と人とが接近するということだ。そのことによって仲が一瞬悪くなったり、それから、その人の出したくないものを出してもらうわけだから、その人の返り血を浴びたり、返り血ってわかるかな? 書くということは、…

小林康夫『出来事としての文学』

問題は、なんらかの理論によって始まりの謎を解消してしまうことではない。あるいは、謎が解消してしまったと思い込むことではない。そうではなくて、人間の文化にとっては、始まりを謎として保持することこそが決定的に重要なのであり、解決不能な、二律背…

小林康夫『出来事としての文学』

もしこれを多少なりとも一般化することが許されるのなら、神話とは、始まりを語る物語、始まりを謎(ainigma――このギリシア語は《物語》をも意味していたはずだ)として、つまり矛盾に満ちた、複合的な仕方で語る物語だということになる。あるいは、人間にと…

小林康夫『出来事としての文学』

だから、おそらく雪とは太古の言葉なのかもしれない。音も意味もなく、しかしわれわれにとってのあらゆる《はじめ》に先行して、つねに降りつづけ、降りすぎている言葉。はるかに人間以前の物質的な言葉。《星》と《草》のあいだの空間をはてしなく埋めつく…

小林康夫『出来事としての文学』

詩が可能になるためには、その非常の出来事が起こったのでなければならない。なぜなら詩はその不可能な出来事をこそ目指すからである。詩の可能性はその不可能な出来事のいちどだけの可能性にかかっている。その非常の祝祭にかかっている。すなわち、いちど…

小林康夫『出来事としての文学』

さらには、どうしてそれほどまでに自分自身を求めるのか。自分自身とは発見されるべきものなのか。しかもそれは救わなければならないものなのか。そして救うことができるというわけなのか。救いがいらないと言っているのではない。そうではないが、しかし人…

小林康夫『出来事としての文学』

だが、出来事はかならずひとがそれを待ち受けていないときに起こる。そうでなければ、それは出来事ではありえない。そうした出来事の論理に従って、「自分」が持つことをほとんどやめたときに、それは起こる。まるで予想もしていなかったような仕方で、とい…

小林康夫『出来事としての文学』

出来事が起こるとき、それが真正であるならば、どこからやって来たのか、われわれは知らない。出来事が起こる。それは、たしかに誰かに、たとえばわたしに、われわれに起こる。それは、あたかもわれわれに与えられる。だが、それを与えたもの、出来事を引き…

阿部嘉昭『実践サブカルチャー講義』

とりあえず散歩は自分の記憶力の存在というか、記憶力のなさ=不在の確認なわけです。意識的に連続した記憶活動をおこなっていなかった自分を再認識するとき、何か「甘やか」な感じってないですか。前回、椎名林檎の授業で配布したプリントに「自己郷愁」っ…