チェーホフ『ワーニャ伯父さん』(神西清 訳)

セレブリャコーフ ツルゲーネフは、痛風から扁桃腺が腫れたという話だ。わたしも、そうならなければいいが、まったく、年をとるということは、じつになんともはや厭なことだな。いまいましい。年をとるにつれて、われとわが身がつくづく厭になるよ。お前たちだってみんな、このわたしを見るのが、さぞ厭だろうなあ。
エレーナ 年をとった年をとったって、まるでそれが、あたしたちのせいみたいに仰しゃるのね。
セレブリャコーフ さしずめお前なんか、いちばんわたしを見るのが厭な組だろうよ。


    エレーナ立ちあがって、少し離れたところに腰をおろす。


セレブリャコーフ お前がそう思うのも、無理はないさ。わたしもばかじゃないから、そのぐらいのことはわかる。お前は若くて、健康で、器量よしで、生きる望みに燃えている。だのに、わたしは老いぼれて、まずもって死人も同然だ。今さら、どうしようもないじゃないか? そのへんのことが、わからんわたしだとでも言うのかね? そりゃもちろん、わたしがこの年まで生きてきたのは、ばかげたことさ。だが、もう暫くの辛抱だ。じきにお前たちみんなに、厄介払いさせてやるからな。そういつまで、ぐずぐずしているわけにもゆくまいからなあ。
エレーナ あたし、病気になってしまう。……後生だから、何もおっしゃらないで。
セレブリャコーフ お前の言うことを聞いていると、まるでわたしのせいでみんな病気になって、退屈して、せっかくの若い盛りを虫ばまれているのに、このわたしだけが生活を楽しんで、なに不足なく暮しているように聞えるね。うん、まあ、そんなこったろうね!
エレーナ 何もおっしゃらないでよ! まるで責め殺されるみたいだわ!
セレブリャコーフ どうせそうだよ、みんなわたしに責め殺されるのさ。
エレーナ (泣き声で)ああ、たまらない! だから、このあたしに、どうしろと仰しゃるの?
セレブリャコーフ 別にどうとも。
エレーナ それじゃ、もう何もおっしゃらないでよ。後生だから。
セレブリャコーフ 妙な話じゃないか。あのワーニャだの、脳みその腐ったお袋さんだのが喋りだすと、みんな一も二もなく、黙って拝聴するが、わたしが一言でも口を利こうものなら、すぐみんな白けた顔をするんだ。声を聞いても、ぞっとするというやつだ。なるほど、わたしは厭なやつで、がりがり亡者で、暴君かもしれない。――だがそれにしたって、わたしはこの年になってまで、自分の意見を持ちだすいささかの権利もないと、いうのだろうか? わたしは、それだけの値打ちもない男なのだろうか? どうだね、わたしは気楽な老後を送る権利もなければ、人様にいたわってもらう資格もない人間なのかね。
エレーナ 誰も、あなたの権利のことなんぞ、とやかく言ってやしないわ。(窓が風にあおられてバタンとしまる)風が出てきた。窓をしめましょう。(しめる)一雨来そうだわ。誰もあなたの権利のことなんぞ、とやかく言ってやしないわ。


    間。夜番が庭で拍子木を打ち。鼻唄をうたう。


セレブリャコーフ わたしは一生涯、学問に身をささげ、書斎になじみ、講堂に親しみ、れっきとした同僚たちと交際してきたものだ。――それが突然、いつのまにやら、こんな墓穴みたいなところへ追いこまれて、来る日も来る日も、愚劣なやつらを見たり、くだらん話を聞かなければならんのだ。……わたしは生きたい、成功がしたい、有名になって、わいわい言われたい。ところが、ここときた日にゃ、まるで島流しみたいなものじゃないか。のべつ幕なしに、昔のことをなつかしがったり、他人の成功を気に病んだり、死神の足音にびくついたいるする。……ああ、たまらん! やりきれん! だのにここの連中は、わたしの老後を、いたわってもくれないのだ!
エレーナ もう少しの辛抱よ。もう五、六年もすれば、あたしもお婆さんになりますわ。