チェーホフ『かもめ』(神西清 訳)

トリゴーリン だがまあ、しばらくお話しましょうか。そのわたしの、すばらしい、明るい生活のことをね。……さてと、何から始めたものか? (やや考えて)強迫観念というものがありますね。人がたとえば月なら月のことを、夜も昼ものべつ考えていると、それになるのだが、わたしにもそんな月があるんです。夜も昼も、一つの考えが、しつこく私にとっついて離れない。それは、書かなくちゃならん、書かなくちゃ、書かなくちゃ……というやつです。やっと小説を一つ書きあげたかと思うと、なぜか知らんがすぐもう次のに掛からなければならん、それから三つ目、三つ目のお次は四つ目……といった具合。まるで駅逓(えきてい)馬車みたいに、のべつ書きどおしで、ほかに打つ手がない。そのどこがすばらしいか、明るいか、ひとつ伺いたいものだ。いやはや、野蛮きわまる生活ですよ! 今こうしてあなたとお喋りをして、興奮している。ところがその一方、書きかけの小説が向うで待っていることを、一瞬たりとも忘れずにいるんです。ほらあすこに、グランド・ピアノみたいな恰好の雲が見える。すると、こいつは一つ小説のどこかで使ってやらなくちゃ、と考える。グランド・ピアノのような雲がうかんでいた、とね。ヘリオトロープの匂いがする。また大急ぎで頭(ここ)へ書きこむ。甘ったるい匂い、後家さんの色、こいつは夏の夕方の描写に使おう、とね。こうして話をしていても、自分やあなたの一言一句を片っぱしから捕まえて、いそいで自分の手文庫のなかへほうりこむ。こりゃ使えるかもしれんぞ! というわけ。一仕事すますと、芝居なり釣りなりに逃げだす。そこでほっと一息ついて、忘我の境にひたれるかと思うと、どっこい、そうは行かない。頭のなかには、すでに新しい題材という重たい鉄のタマがころげ回って、早く机へもどれと呼んでいる。そこでまたぞろ、大急ぎで書きまくることになる。いつも、しょっちゅうこんなふうで、われとわが身に責め立てられて、心のやすまるひまもない。自分の命を、ぼりぼり食っているような気持です。何者か漠然とした相手に蜜を与えようとして、僕は自分の選(え)り抜きの花から花粉をかき集めたり、かんじんの花を引きむしったり、その根を踏み荒したりしているみたいなものです。それで正気と言えるだろうか? 身近な連中や知り合いが、果してわたしをまともに扱ってくれてるだろうか? 「いま何を書いておいでです? こんどはどんなものです?」聞くことと言ったら同じことばかり。それでわたしは、知り合いのそんな注目や、讃辞や、随喜の涙が、みんな嘘っぱちで、寄ってたかってわたしを病人あつかいにして、いい加減な気休めを言っているみたいな気がする。うかうかしてると、誰かうしろから忍び寄って来て、わたしをとっつかまえ、あのポプリーシチンみたいに、気違い病院へぶちこむんじゃないかと、こわくなることもある。それじゃ、わたしがやっと物を書きだしたころ、まだ若くて、生気にあふれていた時代はどうかというと、これまたわたしの文筆生活は、ただもう苦しみの連続でしたよ。駆けだしの文士というものは、殊に不遇な時代がそうですが、われながら間の抜けた、不細工な余計者みたいな気のするものでしてね、神経ばかりやたらに尖らせて、ただもう文学や美術にたずさわっている人たちのまわりを、ふらふらうろつき回らずにはいられない。認めてももらえず、誰の目にもはいらず、しかもこっちから相手の眼を、まともにぐいと見る勇気もなく――まあ言ってみれば、一文なしのバクチきちがいといったざまです。わたしは自分の読者に会ったことはなかったけれど、なぜかわたしの想像では、不愛想な疑ぐりぶかい人種のように思えましたね。わたしは世間というものが恐かった。ものすごい怪物のような気がした。自分の新作物が上演されるようなことになると、いつもきまって、黒い髪の毛の人は敵意を抱いている、明るい髪の毛の人は冷淡な無関心派だと、そんな気がしたものです。思いだしてもぞっとする! じつになんとも言えない苦しみでした!
ニーナ ちょっとお待ちになって。でも、感興が湧いてきた時や、創作の筆がすすんでいる時は、崇高な幸福の瞬間をお味わいになりません?
トリゴーリン それはそうです。書いているうちは愉快です。校正をするのも愉快だな。だが……いざ刷りあがってしまうと、もう我慢がならない。こいつは見当が狂った、しくじった、いっそ書かないほうがよかったのだと、むしゃくしゃして、気が滅入るんですよ。……(笑う)ところが、世間は読んでくれて、「なるほど、うまい、才筆だな」とか、「うまいが、トルストイには及びもつかんね」とか、「よく書けてる、しかしツルゲーネフの『父と子』のほうが上だよ」とか、仰せになる。といったわけで、結局、墓にはいるまでは、明けても暮れても「うまい、才筆だ」「うまい、才筆だ」の一点ばりで、ほかに何にもありゃしない。さて死んでしまうと、知り合いの連中が墓のそばを通りかかって、こう言うでしょうよ。「ここにトリゴーリンが眠っている。いい作家だったが、ツルゲーネフには敵わなかったね」
ニーナ でもちょっと。わたし、そんなお話は頂きかねますわ。あなたは、成功に甘えてらっしゃるんだわ。
トリゴーリン どんな成功にね? わたしはついぞ、自分でいいと思ったことはありませんよ。わたしは作家としての自分が好きじゃない。何よりも悪いことに、わたしは頭がもやもやしていて、自分で何を書いているのかわからないんです。……わたしはほら、この水が好きだ。木立や空が好きだ。わたしは自然をしみじみ感じる。それはわたしの情熱を、書かずにいられない欲望をよび起す。ところがわたしは、単なる風景画家だけじゃなくて、その上に社会人でもあるわけだ。わたしは祖国を、民衆を愛する。わたしは、もし自分が作家であるならば、民衆や、その苦悩や、その将来について語り、科学や、人間の権利や、その他いろんなことについても語る義務がある、と感じるわけです。そこでわたしは、何もかも喋ろうとあせる。わたしは四方八方から駆り立てられ、叱りとばされ、まるで猟犬に追いつめられた狐さながら、あっちへすっ飛び、こっちへすっ飛びしているうちに、みるみる人生や科学は前へ前へと進んで行ってしまい、わたしは汽車に乗りおくれた百姓みたいに、ずんずんあとに残される。で、とどのつまりは、自分にできるのは、自然描写だけだ、ほかのことにかけては一切じぶんはニセ物だ、骨の髄までニセ物だ、と思っちまうんですよ。