クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

 そして彼の父は依然として、まるで自分自身に話しかけでもするようにしゃべりつづけ、あの何とかという哲学者の話をしていたが、その哲学者のいうところによれば人間は他人の所有しているものを横どりするのに二つの手段、戦争と商業という二つの手段しか知らず、一般に前者のほうが容易で手っとりばやいような気がするから、はじめ前者のほうを選ぶが、それから、といっても前者の不都合な点危険な点に気がついたときにはじめて、後者すなわち前者におとらず不誠実で乱暴だが、前者よりは快適な手段である商業を選ぶもので、結局のところあらゆる民族はいやおうなしにこの二つの段階を通過し、イギリス国民のように外交販売員の株式会社的なものに変容する前に、それぞれ一度はヨーロッパを兵火と流血のちまたと化しており、いずれにしろ戦争も商業もどちらも人間の貪婪さの表現にすぎず、その貪婪さ自体祖先伝来の飢えと死との恐怖から導きだされた結果で、そう考えれば殺人盗み略奪も売買もじっさいはおなじただひとつのもの、ただの単純な欲求自分の安全を保ちたいという欲求にすぎず、ちょうど腕白小僧たちが夜森のなかをとおり、自分を勇気づけるために口笛を吹いたり大声で歌をうたったりするのとおなじで、なぜ合唱が兵器の操作や射撃練習とおなじ資格で軍隊の教育課程の一部をなしているかもそれで説明がつき、それというのも沈黙ほど手に負えないものはないからだが、とそこまでいい、