池波正太郎「毒」

 その日。そのとき……。
 長谷川平蔵は、金竜山・浅草寺の仁王門を通りぬけようとしていた。
 師走(陰暦十二月)中旬の、或日の昼下りのことで、風も絶えた暖かい日和の所為(せい)もあり、観世音菩薩を本尊とする名刹浅草寺境内の雑踏ぶりは、久しぶりに浅草へ来た平蔵をおどろかせた。
 仁王門をぬけると、たちならぶ土産物を売る屋台店や葦簀(よしず)張りの茶店の向うに、本堂の大屋根が、鏡のごとく晴れわたった冬空にそびえて見えた。
 と……。
 左手の絵馬堂の方からやって来た中年の男へ、右側の屋台店の蔭からすっと近寄った若い男が、すれちがいざまに懐中の物を掏り盗ったのを、平蔵は網笠の内から見てとった。
 なるほど、手ぎわはあざやかであったが、この掏摸は刃物をつかった。掏摸仲間でいう〔鎌鼬(かまいたち)〕というやつで、これはうすくて細長く小さい鋭利な刃物の上部へ何枚も紙を貼りつけ、ここを二本の指でつまむようにして持ち、すれちがいざま相手の着物を切り裂き、別の手で物を掏り盗るのである。むろん、手指の修行に物をいわせて仕事をする本格の掏摸は、このような汚いまねを、
 (死んでもしねえ)
 そうである。

   ※太字は出典では傍点